落単大学生のエロゲにっき

プレイしたエロゲの感想(批評)を一般論に縛られず楽しく述べます♪(ツイッター→@lambsake)

【プレイ感想】素晴らしき日々 感想 - 考察 〜登りきった梯子を投げ棄てるために〜

 

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※本記事は多量のネタバレを含んでおります。
未プレイで購入予定のある方、あるいはオールクリアされていない方は本記事をご覧になることをおすすめできません。
以上の2点に該当する方々はブラウザバック推奨です。

 

 【前語り】

お久しぶりです、ラム酒です。

半年ほど開けての新作はというと、あの不朽の名作『素晴らしき日々』ということで本稿はその感想-考察です(ちなみにフルボイスHD版の方ですので、追加シナリオの領域にも触れます)。

正直かなり気合入れて書いたのですが熱が入りすぎたというのでしょうか...まず断っておくと、この記事......

非常に長いです。

僕の記事は大体が2万字やそこらが毎度なのですが、今回はその4倍にも及ぶということらしいですよ(他人事)。

イヤァ...イツノマニコンナコトニナッテタンデスカネー。ケタマチガッタカナー。

しかもそれを手がけるのは哲学初心者。本当は偉そうな事を言える立場ではない。

端的に言って僕には荷が重い。

でも僕はひねくれてるので付き合った作品にはケジメをつけなければなりません。だから僕は僕なりにこの作品と向き合って言葉にしてみることにしました。

そしたらこうなった(ドン引き)

ということで長すぎること極まりない本稿は一気読みする気概で触れ合って貰うのではなくゆっくりと、間を開けながらお楽しみください。

 

さて、『素晴らしき日々』と言えば、『論理哲学論考』とか「幸福に生きよ!」が頭の中に浮かぶのではないでしょうか。なるほど確かに「幸福に生きよ!」なんかは強烈な印象を与えますよね。

しかし今回の記事では従来の解釈、及び『論理哲学論考』を基調として踏襲された『素晴らしき日々』像とはまた違った、『素晴らしき日々』の在り方をお送りできればと思います。

端的に言えば本稿の最終目標は『論理哲学論考』と『素晴らしき日々』の癒着を取り除き、『素晴らしき日々』をそれ一個として独特のテーゼを持つ作品として確立することにあります。

そのために『論理哲学論考』が一体どのような哲学であるかを媚びることなく(←誇張無し)お届けした後に『素晴らしき日々』のテーゼを確認してゆくといった具合です。それに連れて皆様がプレイ時に感じた「幸福に生きよ!」が本稿に沿うものなのか、あるいは『論理哲学論考』に沿うものなのか、それをご確認頂ければと。

内容が内容ですので、いつもの敬体調ではなく常体での主張となりましたので、かなり堅さマシマシな記事になりますが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

 

【『論理哲学論考』】

本稿ではまず『論理哲学論考』の思想を簡潔な形で読者にお届けする。是非自分の目でその思想を見定めて欲しい。

しかし『素晴らしき日々』の演出の都合上、少々無理な解釈が続く場合もある。

(要するに『論考』に準じた「終ノ空Ⅱ」と、論考とは若干乖離した「素晴らしき日々」、論考とは明確に異なる「向日葵の坂道」という別々の思想へと帰結するために、各自に整合性の取れるよう本編が計算されてシナリオが構築されているのだ)

つまり本稿を全文を読み、素晴らしき日々独自の思想を受け取った上で、一部無理な解釈が混入しているこの項目で書かれたことを再度確認してほしいのだ。

それでもこの項目は『素晴らしき日々』で大きく取り扱われなかった論考の暗黒面を含めてダイレクトに『論理哲学論考』をお届けする所存である。

事実なる世界

我々の住む世界とは一体なんだろうか。

我々の世界、人間が生きる世界にはたくさんの物があふれている。

人間はそのひとつひとつに名を付けた。

頭上に広がるものを「空」と呼び、踏みしめるものを「地」と呼び、果てが見えない水面を「海」と呼んだ。

屋上は神々の場所。

そこは人の場所じゃない。

だからボクは地に降りて……人々の中に交わる……。

人の世に紛れる。

言葉。

人の言葉。

言葉の海に紛れる……。

実現した言葉の総体が世界。

世界は物の総体ではない……。

実現した言葉……実現しない言葉……。

実現した言葉が一つの世界となる。

ーーー卓司(It's my own Invention)

そう、一言でいうならば世界とは言葉である。

人間は意識せずとも言葉を使う。

口に出さずとも、何かを見て、何かを感じるときにそれが何なのか、どういうものなのかを頭の中で無意識に言葉に変換する。

(そして大抵の場合、例え始めて見る物、その物を指す言葉がなんであるのかを知らずとも、それらに恐怖することはない)

故にあらゆる人間にとって目の前に広がっている世界とは実現した言葉の総体なのである。

1 世界とは、事実の総体である。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

事実とは実現した言葉のことである。
ex,「このブログは『素晴らしき日々』のブログである」、「犬は4足歩行である」

2 起きていること、すなわち事実とは諸事態の成立である
ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

 

事態なる世界

「実現した言葉が世界の総体である」と言うが、それは瞬間的なものでしかない。

切り取られた一瞬、静止した世界をあらわす言明でしかない。

今感じているものが世界の全てではないのだ。

ではもっと大きな意味での世界とは何か。

我々は生涯見る事もない風景も含めて……それが世界である事を、知っている。

”視界”が”世界”ではない。

”聴覚”が”世界”ではない。

”触覚”でも”味覚”でも”嗅覚”でもない……。

それらを極限に感じる”痛覚”ですらありえない。

ならば世界は?

答えはそう難しくない……。

世界とは……言葉になるすべて……。

意味になるすべて……世界。

事実……そして非事実。そう言った違いはある……。

ーーー皆守(Jabberwocky)

皆守は「世界」を知っていると言う。

それは世界が言葉になりうるものの総体であるからである。

「意味になるすべて」とは事実と非事実が組み合わさった「事態」のことである。

2.01 事態とは諸対象(事物、もの)の結合である

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

「事態」とは実現しうる可能性がある(別様にありうる)言葉のこと(実現しなかった言葉(非事実)のことだけではない)。

(事実&非事実=事態)

事態の本質は我々が思考し、頭の中で想像出来る言葉のことである

 

事態(真偽を問いうる命題)こそが世界の中で起こりうる全てであり、その事態を我々は想像しうる。

故に本作品では世界のことを「ありふれた世界」と呼んでいる。

「誰も形にしたことがなくとも……誰でも理解出来……誰でも知っている……。

世界に一度もなかった風景だとしても……それは驚くような景色ではない……。

ありふれた世界」

ーーー彩名(Down the Rabbit-Hole Ⅱ )

ありふれた世界……。

そんな世界で人々は生きていると、『論理哲学論考』は言う。

2.012 論理においては何ものも偶然ではない。ものが事態の中に現われうるならば、事態の可能性はものにおいて既に前以って決定されていなければならない。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

一歩引いて見れば何も驚くことのない世界。

あらゆる事象はあらかじめ実現しうる可能性の中からたまたま実現したもの、言葉の正しい配置によって表現されるもの、それが世界だと言うのだ。

そして『論理哲学論考』においては、この実現しうる可能性全ての世界を「論理空間」と呼ぶ。

 

整理すると、

実現した言葉の総体  =世界(事実なる世界)

実現しうる言葉の総体=論理空間(事態なる世界)

となる。

 

作中で彩名に呼ばれた「ありふれた世界」を構築する「論理空間」は我々が普遍的に持つ通常の感覚を(文字通りの意で)超越している。

一度も目にしたことがなくとも、それは「不可解」として感じる事は許されない。

「ありふれた世界」の本質は「言葉にできる以上、そこには驚きはない」というものであるからだ。

”ここ”では「言語の組み合わせの整合性」以上の法則性は存在しないのである。

 

論理空間と世界の限界

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「あっ!」

希美香は今までにないほどの奇声を上げる。

「牛ですっっ」

「はぁ?」

「牛いっぱいじゃないですかぁ」

そう言われてみると……屋上は沢山の牛せ溢れかえっていた。

「な、なんで牛が?」

「なんでじゃないですよー。屋上に牛が沢山いるって言ったの救世主様じゃないですかっっ」

「屋上に牛?!」

牛がモーモー泣く。

旋律が美しく響く。

ボクたちはすでに地上を遠く離れた宇宙の真ん中だ。

「牛はじめて見ましたーすんげぇ大きいっ、んで踊るんだっ」

「牛が踊る?」

と、見た瞬間、確かに牛は踊っていた。

器用二足歩行で、踊っている。

「ダンスです。ダンス。ダンス

ここは檻の外のダンスですっ」

「檻の外のダンス?」

「はいっ。ここは地球の重力圏内を突破しています……すべてを縛り付ける重力から自由ですっっ。

世界で最初の檻の外のダンスですっきゃははははははっっ」

ーーー希美香、卓司(It's my own Invention)

論理空間。

それは上記の「事態なる世界」のことであった。

しかし上記で述べた「我々が思考し、頭の中で想像できる言葉」という論理空間の設定は非常に広大極まりないものである。

何せ「頭の中で思考できる、想像出来るもの全てが対象」だ。

論理空間の中では牛が二足歩行で踊ったり、アンハッピーセットなるものが存在したり、ふ〇なりの女性だって存在する。

なぜなら頭の中で想像できるから。ならばそれらは実際に実現する可能性として論理空間の中で存在していると言える。

そしてここでは自然科学の法則は一切適用されない(詳細は後述の「確かな一歩」にて)。

「頭の中で想像できること」、これが論理空間内に存在できる条件なのだ。

ぬいぐるみが空中に浮かぶ「空気力学」だって存在する。

 それに対応するかのようにここでは我々の感覚ではカオスな表現が続いていく。

 

上記での希美香の「檻の外」という言明に含まれる「檻」は我々の固定観念を表している。

我々は普通、牛が二足歩行したり、ふ〇なりの女性が実際に存在することを「荒唐無稽だ」と一蹴する。

なぜなら今までそんな事例はひとつもなかったから。

我々の思考回路はそんな自然科学の前提に戒められている(卓司が批難した「教育」の賜物である)。

それは重力も同じ。

誰でも「万有引力の法則」が地球の中で働き続けていることを知っている。だから人間が宙に浮くなんて考えない。

けれど人が宙を駆けまわる姿を我々は頭の中で想像できる。

論理空間とは、我々が実際に触れ合う世界よりも広く設定されている。

 

なぜ論理空間はここまで広大なのか(まさに作中で「地球」と「宇宙」が対比されているように)。

それは『論理哲学論考』の目的が「語りうる領域を(内側から)限界づけること」にあるからだ。

この経緯は少し複雑だ。だが哲学をしない人でも覚えておいて損はないだろう。

ざっくりと解説してゆく。

 

我々の周りで起こる事、それは自然科学と呼ばれるものだ。

だが一般に理解されている自然科学の法則は全て「結果ありき」が大前提である。

例えば、これまでなかった不可解な現象が現れたとする。科学は「なぜそうなったのか」としてその現象の前提(=法則)を「整合性が取れている」ことによって定める。

我々の日常もまた然り。

「妄想か……そうだなちょうど、コペルニクスの地動説が妄想と言われた様にか?」
「分かってるじゃないか……」
「太古の昔から……それこそピロラオスが宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えたにも関わらず……、地上を中心にこの空がまわっていると考えた……なぜか分かるか?」
「なに……」
答えが先にありきだからだよ……。答えが先にあってそれに現実を合わせてきたからだ……。
世界の中心が今此処である。これがまず前提……間違っても、我々の世界が、どっか何かの周りを回転する一個の天体だなんて現実は認めてはいけない……。
答えありき……答えから無理やり導き出される現実……そりゃ現実は歪むわな……。
欲しい答えが、現実に合う事なんてどれだけあるんだろうなぁ……」
ーーー皆守、卓司(Jabberwocky)

(実は2章と4章で若干文面が異なっているのだが、ここは後者を引用する)

人間は法則を求める生き物だ。

何か不可解なものに遭遇した時、人間は与えられた「思考」によって不可解な物事を整合性が取れるように正しく配置したがる。

それは「不可解なものに遭遇すること」がまず前提なのだ。

それに合わせる形で法則を修正する。

故に結果ありき。

しかしこの考え方の大前提は「今まで起きたことは、これからも起きる」ということにある。

言い換えれば「過去に成り立っていた規則性は未来にも成り立つ」となる。

この大前提にはもうひとつ裏がある。それは「状況に応じてこの規則性を改変しうること」ということだ。

今までの規則性に反する不可解なものが現れれば、構築した規則性を破壊することを許している。

論理哲学論考』にてウィトゲンシュタインは「そんなものは規則性とは言わない。ただの形式だ」と断罪する。彼が求めるのはもっと揺るがない「秩序」という名の法則だ。

人間は全知全能ではない。だから我らが作り上げた法則などいとも簡単に崩れるほど脆いものだろう。

そんな脆さを否定するウィトゲンシュタインが真の法則性、いや「真理」を求めるために選んだのが「言語」なのだ。人間は言葉を使って「この世界」を描出する。いわば言語とは世界の写像と言える(「事実なる世界」参照)。

そして人は言語の組み合わせの整合性に逆らえない。我々は意味が理解できる文と理解できない文を否が応でも判別させられる。それは「思考できるか否か」によって求められ、その正否にも逆らうことはできない。

(意味が理解できない文とは矛盾する文。例えば、「三角形は四角形である」等)

意味が理解できない文とは、この世界に実際に現れる可能性がないこと(言葉が世界の写像のため)の証左である(論理空間の外)。そんな文はもはや思考することすらできない。

(思考できない文は思考することすらできない)

 

ウィトゲンシュタインはこの「思考できるか否か」によって世界の可能性を見る。

そのモデルとして「論理空間」という世界を設定した。

この論理空間の前では、自然科学の法則性は全く意味を為さない。

自然科学のような「経験」を必要としない、あるいは人間の感覚というあやふやな概念が入る余地がない必然なる法則

自然科学よりももっと根源にあるもの……「結果ありき」のような後天的に定められるものではなく、ア・プリオリ(先験的)なものである起源を見るのだ。

 

牛が踊り出す空間を進み、遂に卓司と希美香は思考できる限界、世界の限界へと到達する。

ボクらは気が付くと宇宙の果てまでやってきた。

世界の果てまでやってきた。

「ここが宇宙の果て……」

「ああ……そうだよ……ここが宇宙の果てだよ……」

「そうなんだ……ここが終点なんだ」

「終点……」

最果ての空の下で、ぽつりと希美香がそう言った。

ボクらはとうとうここまで来た。

世界の限界。

宇宙の果て。

ボクらの限界。

ここが終わりの空なんだ……。

ーーー希美香、卓司(It's my own Invention)

世界の限界とは言語の限界、すなわち論理空間の限界でもある。

それは思考できる限界点。そこから見える世界は思考できる領域内でしかないだろう。

由岐……俺はたまにこんな事を考えるんだ
世界の限界って何処なんだろう……。
世界のさ……世界の果てのもっともっと果て……。
そんな場所があったとして……。
もし仮に俺がその場所に立つ事が出来たとして……。
やっぱり俺は普段通りにその果ての風景を見る事が出来るのかな?なんてさ……。
これが当たり前って考えるって……なんか変だと思うだろ?
だって其処は世界の果てなんだ。
世界の限界なんだぜ。
もしそれを俺は見る事が出来るなら……世界の限界って……俺の限界と同義にならないか?
だって、そこから見える世界は……俺が見ている……俺の世界じゃないか。
世界の限界は……俺の限界という事になるんだよ。
世界は俺が見て触って、そして感じたもの。
だとしたら、世界って何なんだろう。
世界と俺の違いって何だろう……って。
あるのか?
世界と俺に差。
だから言う。
俺と世界に違いなんてない…… 。
そう俺は確信した。
ーーー皆守(Down the Rabbit-Hole Ⅱ )

世界では思考できることしか起こり得ない。仮に思考できないものが起こったとしても、それを理解することはできないだろう。

ならば世界と私に差は存在しない。

論理空間を背景にした世界で「不可解である」と驚くことなどひとつも起こらない。なぜなら全ては思考できるものでしかない。

故にすべては「ありふれた世界」と言える。

 

世界の限界から世界を見つめる時、世界は論理空間という膨大な可能性の総体を背景に現出する

そしてそこから見る世界では自然科学の法則性や我々が普段行う「結果ありき」な世界との関わり方は無力であり、決まった因果法則の下で世界を理解することはできない。

牛が唐突に踊りだしたり、しなかったり、重力が働いて物が落ちたり、重力が働かず空中に物が浮きだしたりすることだってなんら驚くことはない。それらは「不可解」として見られることはなく、「そんなこともあるわな」で済ませられる。

世界の限界から世界を見つめるとは、「法則性が効かないが故にそこには決まった条件などなく、ただ偶然的に思考可能な物事が起こったり起こらなかったりすること」を了解する世界との付き合い方のことである。

(ここでいう「偶然的」という語は世界を見つめる側に寄せた感覚である。「永遠の相」は「神秘」に与するが故に、生起しうるものは「必然的」でなければならない。ここでの「偶然的」は後に梯子を棄て去りやすくするために用いており、そして「神秘」と対置されるべき意味で「偶然的」という観測者の所感は「世俗的」と言い換えることができる)

(つまり「常識なんてクソくらえ理論」である。あまり深くは考えず、ただ「人間の作り上げた法則性が無い世界」を考えて欲しい。すべては頭の中で想像できるものが偶発的に出現する世界だ。これを前提に世界と向き合うのである、そこでは勝手に法則性を創り出すことは許されない、ただ神様の御心のままに世界は動いてゆく。

※作中で卓司が「不安」に苛まれるのは、この「可能性の膨大さ」のためであろう。全ての可能性を見る者=預言者という寸法だが、『論理哲学論考』の描く神秘観に従い、必要なことだけ取捨選択するできないために「不安」なのだ。このことは終ノ空Ⅱのデタラメな世界観とも符合する)

故にここでは過去と未来を伴う法則性(自然法則)を考えることなどナンセンス。あるのは現在目の前で起こることを享受し続けることなのだ。

このような在り方をウィトゲンシュタインは「永遠の相」と呼ぶのだ。

「永遠の相」、それは作中で何度も扱われた語だが、実はかなり都合よく扱われている。つまり「いいとこどり」な扱われ方であり、ウィトゲンシュタインが提唱する「永遠の相」のイメージとはかけ離れている。今回はその不気味な単語を『論理哲学論考』に即して扱うため、黒い部分も遠慮なく登場する。

これを踏まえて『素晴らしき日々』を捉えた時、明確に『論理哲学論考』との相違点が明らかになり、シナリオライター氏が言う「すば日々思想」を理解することができるだろう。

 

永遠の相

作中でも何度も使われる「永遠の相」一体これは何だったのだろうか。

とりあえずこの「永遠の相」は由岐が扱ったもので一般に理解されているのだと思う。

死を知らない......
動物は永遠の相を生きている......
だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ......」
「動物って死を知らないのか?」
「当たり前じゃない?」
「なんで?」
「だってさ、本当は誰も死なんて知らないんだからさ」
「誰も?」
「そう、誰も死なんてしらない......死を体験した人なんかいないんだからさ......
死は想像......いつまでたっても行き着くことのできない......」
ーーー由岐、皆守(JabberwockyⅡ)

つまり永遠の相の下で生きるということは、我々の生に死が存在しないことを表す。

故に生は永遠であることが示される。

ではいかように生きれば永遠の相は成し得るのか。

それは論考において「現在のうちに生きる」ことによって可能となると言われる。

6.4311 死は生の出来事ではない。死を人は体験しない。

人が永遠性を無限な時間持続としてではなく、無時間性として理解するならば、現在のうちに生きる者は永遠に生きる

---ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

「永遠性を無限な時間持続としてではなく、無時間性として理解する」という奇妙な文をまず整理する必要がある。

まず通常、我々が感じる「永遠」とは「ずっと続いていく」という形で表される。つまり「無限の運動」が我々の「永遠」の概念であるのではないだろうか(僕の中ではそんなカンジ)。

「無限な時間持続としてではなく」から少なくともわかることは、論考とすば日々において「永遠の相を生きる」ということはこの「生という無限の運動」として理解するのではないということだ(×不死性)。

ではこの永遠を「無時間性として理解する」とはどういうことか。

「無時間性」と対局にあるのは文字通り「時間性」である。「時間性」とは端的に言って過去、現在、未来のことである。

「時間性」は人が生きる中で当然のように受けいれられる概念だが、「無時間性」はこの「時間性」を否定するということだ。

しかし別に東洋特有の虚無主義を言っているわけではない。

要は「過去と未来」が存在しないと言っているのである。永遠の相に生きるとは「現在のうちに生きる」のであり、すば日々では「今を生きる」として表現される。

そして「死は生の出来事ではない。死を人は体験しない」に帰ってみよう。

独我論の典型として、あるいは我々の感覚からして現時点で最も同意を促せるような解釈はエピクロスの論理だろう。

悪いもののうちで最も恐ろしいものである死は我々にとって何ものでもない。なぜなら我々が存在する時には死は現に存在せず、死が現に存在する時には我々が存在しないからである。

ーーーエピクロス

我々が存在する時、つまり生きている時我々は死んでいないのだから、死は存在しない。言い換えれば生きている限り、死を体験することはない。死がどんなものであるかを人は経験することはできない。死んだ時、死がどんなものかを体感する身体はない。

エピクロスの論理は体験する主体(私)がその中で生き、その中で死ぬ世界を前提している。主体が死んだ後もこの世界は、主体が存在しない世界として存在し続ける。

なるほど確かに死んだ僕は死がどんなものかを生者に語ることはできないだろうし、そもそも経験もできない。この記事を書く僕が死んでも、未完成の遺稿は残るだろう。とても単純かつ明快で感慨深い独我論的解釈だ。

だがウィトゲンシュタインは違う。

6.431 同様に、死によって世界は変化せず、終わるのである。

---ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

先程の死観をウィトゲンシュタインに当てはめるわけにはいかない。彼の思想に基づけば記事を書く僕が死ねば世界は終わるのだから、未完成の遺稿もまた存在しない。

「現在のうちに生きる」と主張するウィトゲンシュタインにとって主体が死んだ後の現在は存在しない。未来の存在を考えない者にとって死んだ時点で現在性が失われるのだから、来るべきであろう後の現在(つまり我々の言う未来)も存在しない。

よって世界は終わるのだ。

(↑正確には少し違う。その本質は後に述べる「私の世界、私の痛み、消えゆく「私」」にて語ったことと連関する。世界と(私の)生が一つであることから、私が死ねば「この世界」は終わるのである。要は私がいない「この世界」は想定不能であるからということだ。小難しいことは考えず、彼にとって、私が存在する以前の世界もなく存在した以後の世界も存在しない、と考えればよい)

 

彼にとって死に対する恐怖とは、「死を未来における出来事と理解し、恐れること」である 。これは過去、現在、未来という時間性のうちに生きていることである。エピクロスの死観は、死を経験できないとは言え死んだ後も世界が進んでいくという時間性を含有するとして却下される。

死に対する恐怖は誤った、即ち悪しき生の最良のしるしである。

---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年7月8日)

エピクロスや我々が普通に抱く死観は彼から言わせれば、「誤った生、劣悪な生」なのである。

これは卓司が教室で演説を行った時に、常識を形成する教育を否定することと符合する。そして彼が行ったことは死に対する恐怖を取り除くことでもあった。

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 「死とはヘルが扱うもの・・ヘルが導くものでしかない
ヘルとは何か?
これこそ、存在の不安である!
生への不安、それこそがヘルの正体である」
「死を殊更避ける必要など無い!
死は受け入れるべきなのである!」
---卓司(It's my own Invention)

ウィトゲンシュタインの″「現在に生きる者は永遠に生きる」という魅力的な言明は、極端に解釈すればここで述べたようなグロテスクな論理でしかない。

単純に、論考に基づいた時永遠の相に生きる者は生の終わりを世界の終わりだと解釈しなければならない。普通そのようには考えないし、あまりに破壊的すぎる。

大まかに言って本稿はこの論考に基づいた「永遠の相」を否定し、

そして最後に『素晴らしき日々』特有の「永遠の相」の実現を図る。

 

 

永遠の相の下での直観

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上記で永遠の相に生きることが示されたが、ここではそのような生き方はどのように世界と向き合っていくことになるのかを論じる。

 

この項目名が示す、永遠の相の下で世界を見るとはいかなことか。

論理空間を経て、世界の限界に到達した希美香は言う。

「ねぇ……救世主様……」

「なんだ?」

「ここって終ノ空なんですか?」

「ああ、そうだね……ここは終ノ空だ……世界最果ての空だよ……」

「そうなんだ……。

思った通りだな……」

「なんだ?」

思った通り……最果ての空もいつもの空も変わらないんだ……なぁって……

「ああ……そうだな……」

「終わりだから特別……なんてないんですよね……」

「そうだな……」

でも……夕日って……どこの空でも綺麗なんですねぇ……。

世界の果てで見る夕日も……いつもの帰り道に見た夕日も……どっちも同じ様に綺麗……綺麗なんだなぁ……

ーーー希美香、卓司(It's my own Invention)

論理空間という宇宙を経て、最果ての空で見る夕日とは、すなわち世界の限界から夕日を見ることである。

世界の限界から世界を見つめるとき、永遠の相の下に世界を感じる。つまり「現在のうちに生きる」ことを背景にする。

芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。

日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相のもとでの考察はそれらを外側から見る。
それゆえこの考察は世界全体を背景として持っている
ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年10月7日)

「芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象」とは一体何のことか。

少し考えてみよう。

例えば一枚の絵画。

絵画を見るとき、鑑賞者は描かれた内容を読み取り、その絵画を評価する。それは描かれた内容のひとつひとつを評価するのではない。絵画全体を評価するのだ。

美術館に行った時、部屋に入ればズラッと絵画が並んでいることがわかる。だから「ここには絵画があるんだな」と理解する。

(この時絵画がそこに存在することを理解するのであって描かれた内容を瞬時に理解するのではない)

絵画がそこにあることを確認し、順路か何かに従って壁際を歩いてゆく。そしていざ絵画を目にした時、そこに描かれた内容は唐突に世界に出現する。

そしてその内容を吟味し、その絵画の「美」を見出そうとする。

「絵画」があることは前提として理解して、描かれた内容は目にした瞬間に理解する。

それと同じ事なのだ。

つまり先ほどの「絵画」が「(土台としての)世界」であり、「描かれた内容」が「事実」として表れる。

絵画を前にしたとき、そこに美を見出そうとするのであって、醜さを見出そうとはしない。

同様に世界の限界から世界と向き合ったとき、絵画という一つの世界を前にするように、いわば外側(世界の末端)から世界全体を見つめる。

そしてその世界の美を感じるのだ。

 

そこで見出された美は世界全体を包み込み、その世界を(一枚の絵画の様に)ひとつの美として感じることに繋がる。

「世界の果てで見る夕日も……いつもの帰り道に見た夕日も……どっちも同じ様に綺麗……綺麗なんだなぁ……」とは、「世界の果て」と「いつもの帰り道」という2つが同じ目線で捉えられていることを表す。

世界の限界から全てを見るとき、世界は全て知っているもので構成されていることを理解したが故に「ありふれた世界」として表れ、いつもの帰り道に世界を見るとき、世界は「ありふれた風景」として扱われる

つまり「ありふれた風景」は「ありふれた世界」の中の一描写にすぎないが、「ありふれた世界」に美を感じるように、(いわば延長線上のように)「ありふれた風景」も同じ美として現れる

その美は世界の限界からすべての風景を満たしている。

その時どんな「ありふれた風景」も神が与えたもうた美しいものとして捉えることができる。

(全ては同じ美へと変わってゆく…。あらゆる素朴な醜美を覆い隠すように)

 「わすれものなんて……私達にはないですよね」
「わすれもの?」
「はい、もう無いですよね。ここですべき事って……」
「わすれもの……。
お前は何か思い当たるものあるか?」
「いいえ……ずっとこの空見ながら考えてたんですよ……わすれものなかったかなぁって……」
「それで?」
「わすれたんなら、わすれものじゃないなぁ……って思いました……。
それはいらないもんなんだって……」
「いらないものか……」
「はい、いらないもの……本当はいらないものなんて……無いんだと思うんです……。
でも、全部がいらないものなら……全部いるものと同じになっちゃう……。
だから……どっかで線ひかないと……。
わすれた何かは……もういいんです……。
ここでわすれたものはない……」
ーーー希美香、卓司(It's my own Invention)

ここで「わすれもの」というひとつの例が出される。

これは永遠の相へと繋がる一文だ。

日常の考察の仕方は、諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相の下での考察は、それらを外側から見るのである。
従ってこの考察は世界全体を背景として持っている。
あるいはこの考察は、時間・空間の中にある対象を見るのではなく、時間・空間と共にある対象を見る、ということか。

ーーーウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年10月7日)

 「わすれもの」という概念が存在するためには必ず因果関係が発生する。

普通「わすれもの」をした時、記憶を遡り、その結果を現在に投影して「わすれもの」を探す。つまり「わすれた」という過去を必ず必要とする。

「わすれたこと」という過去によって「わすれもの」という概念は存在が許され、そして「どこかにあること」という現在への推論を了解するから「わすれもの」は探すことができるのだ。

たが「わすれたんなら、わすれものじゃないなぁ...」とはいかなることか。

つまりこれは「永遠の相のもとでの直観」を表している。

「時間・空間と共にある対象を見る」つまり「現在のうちに見る」という永遠の相のもとでは「過去」や「未来」は考慮されえず、我々の紡ぐ因果関係は放棄される。

原因を放棄するのだからここでの「わすれた」という言明は過去の「わすれたこと」を伴っておらず、結果である「わすれもの」はなく、ただ「わすれたという事実」だけが存在する。

なぜならあるのは今だけだから。わすれるようなものは必要がない。今思い出せない記憶には何ら意味もなく価値もない。

よって「わすれもの」は「いらないもの」へと変化する。

絵画を見る時だって、描かれた人々の過去や経緯は考えないし、描かれたものの歴史も考慮しない(現実に実在する建築物とかなら別だが)。

一枚の絵画の中で、描かれた1人の人物が存在しないという状況も考えないだろう。描かれた内容全体でその絵画は形作られている。何かが欠ければ同じ絵画とは言えない。

何かが欠ければ同じ絵画とは言えないように、何かが余分に存在すれば同じ絵画とも言えないだろう。

絵画を前にして、そこにあるのは今伝わるものだけ。

読み取るべきは描かれた内容から伝わるものだけなのだ。

(「伝えたい想いたった一つ」というどっかの名作のキャッチコピーを思い出してもよい)

つまり絵画に描かれたものは「根拠律から独立にあるもの」として現れる。

描かれる対象の因果は考慮しないのだ

 

永遠の相のもとにおいて「現在」とは唯一実在性を伴うものとして信頼されるが故に比類ないものとしてそこにある。

そこでは「わすれたこと」は現在という比類ない実在性の前で掻き消されるのだ。

 

...あまり現実味が湧かなかっただろうか。

だが次に引用するものを見ればウィトゲンシュタインにとっての永遠の相かどんなものなのかがはっきりするだろう。

当のウィトゲンシュタインは永遠の相を、「現在のうちに生きる」ということをフィルムとスクリーンの比喩を使って表現している。

54  ここで我々が語っている現在は、映写機のレンズの位置にまさに今ある、フィルムの像ではない。

フィルムの像は、この像の前後にあって、未だそこにないかすでに以前にそこにあった他のさまざまな像と対比される。

そうではなく、ここだ語っている現在はスクリーンの上の像であり、その像は不当に現在の像と呼ばれている。

---ウィトゲンシュタイン(『哲学的考察』)

この比喩は当時のウィトゲンシュタインの思想を正確に表している。

フィルムを映写機で回すことでスクリーンにはフィルムに刻まれたものが映し出される。

ここでは今現在スクリーンに映るものと、映しているフィルムの時点が「現在」であり、スクリーンに写し終わったフィルムが「過去」を表し、いずれスクリーンに像を映すフィルムが「未来」を意味する。

「不当に」という語は上記の「永遠の相」と後に述べる「私の世界、私の痛み、消えゆく「私」」を見て貰えばわかるだろう。

現在映る像は、もう既に過ぎ去って映っていない像とこれから映るであろう像と対比されている。現在映る像が他の像と比べていかに自明で最も重要なのかを表している。つまり過去と未来は現在映る像の比類なさに重要度として掻き消されるというイメージだ。

それも大事だが、しかしここで最も言いたいことというのは、このフィルムが全ての時間性を表しているということだろう。

フィルムを回している限りにおいて、過去、現在、未来で起こることは全てフィルムに刻まれている。だからスクリーンにもフィルムに刻まれた通りに映っている。

ここにおいて「私」と呼ばれる人物は、生まれた瞬間に放映され始めた誰かが作ったフィルムが映す像を観測し続けるだけの存在として現れる。

産まれる前から放映されているわけではない。この観測者が死ねば、この世に産み落とされてから回り続けたフィルムも同時に止まる(死によって世界は終わる)。

この世界で起こりうることの全てを記したフィルムを作りし者、フィルムという運命を編みし者とは誰か。

ウィトゲンシュタインはそれを神と呼ぶのだ。

 

(補足)

意味理解が可能な言語の組み合わせの総体である「論理空間」の前では、過去から未来を予測する法則性は無意味である。

だから論理空間を背景にした世界を肯定するためには、現在のうちに生きること、つまり刹那的に生きることという永遠の相のもとで世界を見るしかないのだ。

 

幸福に生きよ!Ⅰ

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「たった一つの思いを刻み込まれる?」
「そう、命令にした刻印......すべての人......いや、すべての生命がその刻印に命じられて生きている」
「すべての生命を命じる刻印......」
「そうね......その刻印には、ただこう刻まれている。
幸福に生きよ!

猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。蝉さんよ。そして人よ。

等しく、幸福に生きよ

(中略)

空を美しいと感じた……。
良き世界になれと祈るようになった……。
言葉と美しさと祈り……。
三つの力と共に......素晴らしい日々を手にした。
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れることなく......この世界に絶望することなく……。
ただ幸福に生きよ、みたいな」
ーーー由岐、皆守(JabberwockyⅡ)

由岐は言う、「幸福に生きよ!」と。

全ての生命に刻まれた刻印、「幸福に生きよ!」

それはいわば原罪だ。

素晴らしき日々』の代名詞とも言えるこの原罪。

彼女に従えば、人は言葉と美しさと祈りによってその祝福の福音を聴く事ができると言う。

それは一体なんであったのだろうか。

以下から3項目にわたって論じてゆく。

ただし「素晴らしき日々ルート」で挙げられる順番に対応して、「美しさ」「言葉」「祈り」の順に語っていく。

 

比類なき美なる原罪、素朴なる醜美の消失

「お母さんは馬鹿なんだよ......本当に純粋で、純粋故に、好きでもない男と寝て、子供を設けた......
世界を救う救世主を作るために......」
(中略)
それらは、どこまで正しく、どこまで信念を持っていたのだろうか......。
それぞれが正しいと思い、信念を持った結果がこれだったのかもしれない。
人は、何かの問題に安易な原因を作る。
でも、悲劇の原因はただひとつの事実によってなど決定しない。
正しい選択の積み重ねが時に大きな悲劇だって生む。
そういった意味でも、
”地獄への道は善意で敷き詰められている”のだろう。
人はよかれと思い......地獄への道を歩いて行く......。
---羽咲、皆守(素晴らしき日々)

我々の胸に刻まれた「幸福に生きよ!」という原罪には、性善説的なニュアンスが多く含まれている。つまり我々が幸福を求めることは「善意」という名の原罪なのである。

良心とは認識の生が保証する幸福のことである。
認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。
---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年8月13日)

その原罪の下にある限り(つまり生きている限り)、どんなことがあったとしても我々は幸福なのである。それは本編での凄惨な悲劇をもってしても揺るがない不動のもの、つまり倫理学的な領分である「絶対的な幸福」なのだ。麻薬に手を染めた者に犯されたことでさえ、神はその全てをありふれた世界とし、その生を「幸福」であるとする。

それを体現するため(神の意志と一致するため)には全ての人間が善意を持って行動している、という仏のごとき慈愛に満ちた態度であらゆる事態と向き合っていくのだ。

全ての人間が幸福を願って善意で行動している...それは確かに美しいものではないだろうか。

それは世界が美しさに満ちていることを表す(まさに演繹的に、つまり大前提として)。

 

しかしこの比類なき美しさの前ではあらゆる苦難の醜さだけでなく、我々の見出す素朴な楽しみや美しさは、絶対的な美しさの下で搔き消えてしまう。

世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。
この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。
---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年8月13日)

美しいことが確定しているそんな世界と向き合う客人である我々の存在はもはや必要ではない。

我々が世界を美しいと思うが思うまいが世界は既に美しい。

何故なら全てが前提として美しいのだから。

(何故我々が必要ないのかは、後述する「確かな一歩」にて述べる。だが人によっては捕捉がいるであろうと思うので、ここで一言言うとすれば、論考において我々は大いなる神が紡ぎ続ける運命の享受者でしかないから、というところか)

我々が世界から美を見出すまでもなく、世界は比類なく美しいのである。

 

「地獄までの道は善意で続いている」ことをこの素朴な感覚から一歩引いて感じること、それは永遠の相のもとで世界を感じることに類似する。

善き意志に基づいて行動したとしても、因果はそれを裏切りうる。いやむしろ論考においては因果は全く関係ないものとして映る。

言うなれば、人の行動が必ずしも良い結果を生まないことから、どこかで運命を編んでいる神の存在を見てとること。そしてそれでいて人がいつだって善意を持って行動していることを感じ取ること。

世界を美しいものとして見ること、それが由岐の言う「空を美しいと感じた」の隠喩が持つ真意である。

 

↓勘のいい方用の余談。

しかしこの比類なき美しさの前ではあらゆる苦難の醜さだけでなく、我々の見出す素朴な楽しみや美しさは、絶対的な美しさの下で搔き消えてしまう。

世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。
この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。

---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年8月13日)

世界と向き合う観客である我々の存在はもはや必要ではない。
何故なら全てが前提として美しいのだから。
我々が世界から美を見出すまでもなく、世界は(演繹的に)比類なく美しいのである。

ここにおいて我々の生は「神の芸術作品」と言える。

我々一人一人の生は神によって祝福され、それそのものが本質的に(大前提として)美であることを見出されている。

(つまりこの美は我々の経験的に見出される帰納法の下にあるのではなく、演繹法の下にある美であるとも言えるだろう。この言明が核心的に意味を持つのはもう少し先の話であるが)

ウィトゲンシュタインが諦観したように、我々の生は認識の生であり、この生が幸福であることは犯し難い必然である。それはこの生の所有者であるはずの主体の感覚の一切を憂慮しない。その美は我々のいかなる感動をも「素朴なもの」と一蹴することができる神が調停した美である。

ここまでストイックな美と幸福はイデアの認識と捉えられる。イデアとは物事の揺るがなき定義や概念のようなものである。イデアの認識にも人の感想や定義づけは必要がない。なぜならイデアもまた本質的なもの(ア・プリオリなもの)であるからだ。

かくして本質的なものに属する「幸福に生きよ」という原罪(イデア)を刻み込まれた生命は神の名の下に絶対的な美であり幸福なのである。

 

私の世界、私の痛み、消えゆく「私」

「事実なる世界」「事態なる世界」「論理空間」にて言葉とは世界であることを示した。

言葉とはいわば世界を描出する写像なのだ。

由岐の言う「言葉」とは「世界」のことである。

よってこのように言うことができる。

世界は私に与えられている

言葉を理解し紡ぐ存在、それが「私」だ。

この表象の世界において紡ぐのは他の誰でもない、「私」なのだ。

はじめに「世界ありき」。

世界が存在しない世界を想像することはできない。そのような虚無では思考する「私」もまた存在しえない。

では、このありきとされた「世界」について言語的に考察を行う。

言語の使い方について論じると同時に「世界」をも理解することができるだろう。

いまこれを読む”あなた”がどのような世界に住んでいるのか。「まさに哲学」のような議論が木村と皆守の問答から窺える。

(ほぼ全文引用するため結構長いが、できれば辛抱して読んで欲しいが、言葉が世界であることを理解出来ていれば飛ばしても良い)

 

 

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「君の言う通り……そんな人生のの閉塞感はいつの時代だってある。自らの人生が、この宇宙の中で、この世界の中でなんら価値がない……。今の時代に限った話ではないさ……」

「なら……」

「だから……どうなる?」

「……」

「今の時代に限ったことではない……今だけではない……。でも我々は、その他ならぬ今を生きている。我々は藤村操……夏目漱石やら尾崎放哉やらが生きているわけではない。我々の苦痛は、今、そこにある我々の苦痛だ誰か遠くの苦痛ではない。今感じている痛み……それは誰のものでもない……だからこそ大事なんだ……

「なるほど……今の我々の痛みは……他の誰の痛みでもない……ですか……。(中略) だいたい我々って……自分の痛みとか言っているのに、主語がめちゃくちゃじゃないですか……
「あらら……ごもっとも」

ーーー木村 皆守(素晴らしき日々)

「今の我々の痛みは……他の誰の痛みではない」という木村と皆守の言明から「この痛みは私の痛みである」という命題を立て、それがいかなることかを考察してみる。

「この痛みは私の痛みである」と形式的に同じに見える命題を用意してみよう。例えば「この傘は私の傘である」という命題。我々はこの命題を語る場面を想像できる。それは「この傘」の所有者が誰かを言う場面(問われた場面)だ。言い換えれば「この傘は私の傘であって、あなたの傘ではない」ということを意味している。この命題は「この傘は私の傘である」は「この傘はあなたの傘である」と対比的に用いられる。

つまり「あなたの傘であるという(想定可能な)可能性を排除している」

それ故「この傘は私の傘である」とい命題は、別様にありうる事実に関する命題であり、想像可能なのだ。(この傘は彼の傘である場合を我々は思考できる=この命題は「有意味」)

では最初に戻ろう。

「この痛みは私の痛みである」を先に倣って言い換えてみよう。すると「この痛みはあなたの痛みである」となる。今発生している「この痛み」が「あなたの」ものである可能性は想定できるだろうか。同時に作中に倣って「この痛みは我々の痛み」であると言うのは有意味だろうか。「私の痛み」が私以外の誰かのものである可能性を想定することはできない。

有意味な命題とは「或る可能性の排除を前提としている」。「私以外の痛み」を想像出来ないが故に「この痛みは私の痛みである」という命題は無意味であり、無条件に真なトートロジーで、別様にはありえないものである。

6.1 論理の命題はトートロジーである

ーーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

無条件に真であるならば、それは必然的な真である。

(「雨が降っている」と言う命題が事実の像として描出できるのは「雨が降っていない」という別の可能性があるからである(別様にありうる)。故にその命題の対比ができるからこそ有意味なのである。すなわち有意味な命題とは全て偶然的である。

命題が有意味か無意味かは「何と対比してか」という問いから明らかになる)

5.61 論理は世界を満たす。世界の限界はまた論理の限界である。

それ故我々は論理において、世界の中にこれは存在するが、あれは存在しない、と語ることはできない。

つまりそれは見かけ上、我々が或る可能性を排除することを前提しているだろうが、しかしそうしたことはありえない。何故ならそうであれば、論理は世界の限界を超えねばならないだろうからである。つまり論理がこの限界をまた他の側から眺めることができる場合であろう。

我々が思考できないものを、我々は思考できない。それ故我々は、我々が思考できないものをまた語ることができない

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

木村の言った「我々の閉塞感」も「我々の痛み」も、感じるのは主体である「私」である。私が感じた痛みは「我々」が指すその他多数の感じた痛みと同等という論理的根拠はどこにもない。「私の閉塞感」、「私の痛み」には隣人として対比できるような「あなたの痛み」は存在しない。

そして「世界は私の世界である」であるという有名な独我論の命題もこれと同様である。「世界はあなたの世界である」という命題も想像できないため「私の世界」に対比されるものは存在しない。

面白いのはここからである。

先ほど述べたように「私の痛み」「私の世界」のような対比される事項が存在しない命題においてはもはや「私の」という語は余計でしかない。なぜなら「世界」の所有者、「痛みの所有者」は「私」以外にあり得ないのだから。

(今こうして記事を書く「私にとっての世界」は私以外の誰のものでもない。また同様にこれを読む「あなた」にも「あなたにとっての世界」はあなた以外の誰のものでもない)

398 他の人が或るものを持っていることを、君が論理的に排除するのならば、君がそれを持っていると語ることも意味を失う。

ーーーウィトゲンシュタイン(『哲学探究』) 

頭がこんがらがってきただろうがそれもそのはずである。なぜならここでのウィトゲンシュタインの主張とは、従来の独我論者達の主張「世界は私の世界である」という命題に対して言語の使い方として誤っていると指摘することなのだから。

世界は世界でしかない、「誰の?」と自問自答する事はもはやナンセンスなのだ。

しかしウィトゲンシュタイン独我論自体を否定しているのではない。むしろ肯定している(「独我論が考えていることはまったく正しい(5.62)」)

「世界は私の世界である」という命題は別様にありえないものである。それが表す意味は明晰に語り得ず、ただ示されるものなのだ。

6.52 独我論が考えていることはまったく正しい、ただそれは語られえず、示されているのである。

世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

 (当然ここでいう「示されている」の対象とは、語り得ないとされた独我論の言語の限界を超えた論理のことである。独我論は根本的に言語の限界を超えているのだから記述することはできない。それはただ示される。

一般に言われる「世界はすべて私の頭の中の妄想である」という独我論の命題だって、その「私の」は主張する本人のことだけであって、そもそも聴かれることを想定していない。そう主張したがるということは、聴けもしないであろうはずの妄想の住人である他者に実際に聴いて欲しがっているわけであり、他者の実在を信じていることになる。独我論を主張することは他者の実在を信じていることになってしまう。)

 

さて遠回りになった。

「私の痛み」についても上記と同じ形式が適用される。「私の痛み」は他の誰でもない私のものである。故に「私」以外の所有格が適用される可能性が無いのならば「私の」という語は不要である。『論考』の理屈に準じるのならば「痛み」とは「私」以外の誰のものでもない。

「なんだ……これ」

「おんぶだよ」

「見りゃわかるわ……何で俺はおんぶされてる」

しかも、何故か由岐は道着を着ている。

「だってボロボロにやられたんでしょ?」

「だとしても、実際に肉体には傷ついてないはずだろ。じゃなきゃ、間宮卓志の身体にも傷が残る」

「だから?」

「だからじゃないだろ。大丈夫だから降ろせ」

「そう?身体動かないんじゃないの?」

「!?」

言われてみればほとんど身体を動かす事すらできない……。

「なんだこれ?」

「だからさ、ボロボロにやられたからだよ」

「でも、それは脳内の……」

「何言ってるの、それ言ったらその怪我だけじゃなくて、あんただって私だって脳内だけの存在じゃないの?」

「そういう問題じゃなくて……」

「脳内だけの怪我なんて無いんだよ……痛みは痛み。架空の痛みなんて無い。たまにいるらしいけどねぇ。お医者さんとかで"あなたがその場所が痛いなんてあるわけがないんですっ"とか言う人……バカだねぇ。痛みに幻覚なんて無いよ……痛みは痛みだ……あんたが受けたものは幻覚でも何でもないんだよ……

ーーー由岐、皆守(Jabberwocky)

2人は同一人物でありながら皆守だけが痛みを感じ、由岐はその痛みを感じていないのは『すば日々』において肉体が主体の証なのではなく、形而上学的な自我(世界の限界)が主体であることを示唆している。彼らは一つの肉体に3つの自我を宿しており、共有化されているのは肉体だけで、自我(意識)は別々であり共有されない。

この意識こそDown the Rabbit-holeⅡから素晴らしき日々ENDあるいは向日葵の坂道ENDまでの『すば日々』本編内での各登場人物の「私」である。

痛みを感じるということは、確かに、そしてあたりまえのように「私」が実在していることの証左であり、同時に「私」の比類なさを表す。

肉体が「私」なのではない。

俗に言う「魂」が本編における「私」である。

これをウィトゲンシュタインは「形而上学の主体」あるいは「独我論の自我」と呼んだ。

5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

 

そして木村との問答は続いていく。

「ふぅ……。でも……その気持ちはわかります……。他の誰の痛みでもない……と言いたくなるその気持ちは……」

ーーー木村、皆守(素晴らしき日々)

(ここの「ふぅ…」は議論の転換符であり、この後に続く皆守のこの言明は『論考』とは乖離したものとして見る必要があるだろう)

しかし皆守は先ほど説いた「この痛み」の所有者が私のものでない可能性を示唆する。だがそれは『論考』を基にした『素晴らしき日々』の範疇ではない議論なのである。

何より、この後の皆守がバーで旋律を奏で始める以前に、語り得ぬものを奏でるわけにはいかない。それは世界を正しく見始めた後に奏でられる

論理の中で語られることではないのだ。

 

 

…そして再び議論は『論考』へと帰ってくる。

本編ではディキンソンの詩が奏でる「世界」と対比して、ジグソーパズルの比喩が扱われる。 

「所詮は行き着く先は……”私の存在意義”に尽きるということか……」

「存在意義?」

「人生って何だろう? って事だよ」

「はぁ……」

「人生の意味……。まぁ、思春期の延長上の悩み……誰もがそう思いながら、そう信じながらも……誰も答える事が出来ない究極の問い。それに取り憑かれているだけか……」

(中略)

「人間無力感を感じた時には誰だって一度くらいは自分の存在意義に疑問を持つだろ? 私に、ボクに、俺に……人間に……果たして存在意義なんてあるのだろうか我々の存在に意味はあるのだろうか? ってね」

(中略)

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか……」

「そう。フランスの画家ポール・ゴーギャンが自殺する直前に……名付けた遺作の題名だ……」

「正しくは自殺未遂ですけどね……」

「はははは、そだね。月という夢……六ペンスという現実……我々は何処からきて、何処へゆくんだろうな……」

ゆりかごから墓場までじゃないんですか?」

「はははは、なんだよそりゃ?福祉の対象内となるのが人生かよ」

「だいたいそんなもんでしょ……人生なんて……」

「……。そうかもな……。そういうものかもしれない……俺達の人生なんて……。特に……すべてが出来上がっちゃった後の世界に生まれた俺たちにとってはさ……ある意味酷な話じゃないか?」

「ふふふ……今度は世代間批判ですか?」

「あははは、そうなっちゃうなぁ。そう聞こえても仕方がないよねぇ、あはは」

ーーー木村、皆守(素晴らしき日々)

存在の意義について木村は語ろうとする。

しかしそれは肉体的な意味になるだろう。ここでの議論は心と身体をひとつのものとして捉えている。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか……」という問いに対し、皆守が答える「ゆりかごから墓場まで」はあくまでこの身体だけでしかない。

だからここから展開されるのも、この身体を通した「世界」についての議論だろう。

「ジグソーパズル……のピースに意味はあるんでしょうか?」
「はぁ?なんだそれ?」
「ジグソーパズルのピースは……その一片ではなんら意味がない……。ただ一つ、そこに在るだけではまったく無意味な存在だ……。木村さんの言い方なら……人間はジグソーパズルの一片に等しい存在だ」
「ジグソーパズルの一片に等しい存在……」
「そう…そこにはまる場所が無ければ……自分に合う場所がなければ……その一片には意味がない」
「……」
「たった一つのジグソーパズル……たった一片の歪な形の欠片……。どこかにはまらなければ……ただの無意味で……醜悪な存在……」
「それが・・・」
「でも人生って、パズルの一片なんでしょうかねぇ……。我々はパズルの一片なんでしょうか……」
「……」
「パズルの一片って……その外側があるから……はまる場所があるんですよね」
ーーー木村、皆守(素晴らしき日々)

木村の問いは皆守によってジグソーパズルに例えられる。ここで問題になっているのは「私」の唯一性についてだ。より適切に言えば「独我」の唯一性。先ほどの「痛み」の例から「私」という存在の固有性が高まってきている。

では唯一性とはなんなのか。ここが厄介なロジックなのだ。

引用部の冒頭、皆守の「ジグソーパズル……のピース」がカギであり、その先からはわざわざ「……」で区切る意図が端的に表されている。「(全体としての)ジグソーパズル」「パズルの一片」の対比がなされており、それぞれが異なる唯一性を表している。

ひとつずつ解明してゆこう。

「私に、ボクに、俺に……人間に~意味はあるのだろうか?」が木村の問いである。

木村の問いは「パズルの一片」が「私」として表れていると皆守は例える。「パズルの一片」という言い方は「他のパズルの一片」があるということである。

つまりここでいう唯一性とは「一片目」という意である。

(一、二、三……と数えられる数の中の一にすぎない)

一片一片は確かに「一」だが、木村が問い、皆守の例えた「パズルの一片」はたまたま、あるいはなんらかの因果(例えば感傷とか)で優先的に目につく最初の一片目にすぎないのだ。

(木村の問い「私の」「ボクの」「俺に」はそれぞれ「パズルの一片」であり、最初に挙げた「私の」が一片目である)

そしてその一片一片を皆守は「そこに在るだけでは」無意味だと言う。それが有意味となるのはその外側……額縁やら上手く繋がる一片やらの外側が無ければならない。

(はまりうるからこそ「パズルの一片」は欠片たりえ、他のパズルと隣人のように対比できるからこそそれは一片たりうる)

 

しかしそもそも我々はパズルの一片なのだろうか?

「外側があるから?」

「そう、外側があるからこそ、ピースはうまくその場所にはまる……」

「外枠……」

「そう……外枠……。極論……俺の……そしてあんたの世界の外側ってどこにあるんですかね?」

「俺の……世界の外側……」

あんたの世界がはまるべき世界ってどこにあるんですか? 俺の世界がはまるべき場所……まるでジグソーパズルの一片の様にはまる場所……そんなもっと大きな世界なんて本当にあるんですか?

ーーー木村、皆守(素晴らしき日々)

ここで皆守の「あんたの世界がはまるべき世界」という言明から「パズルの一片」のひとつひとつが「世界」であることが示される。

「もっと大きな世界」はジグソーパズルに例えるなら額縁のことであり、その中に無数の「私の世界」が「パズルの一片」としてはまっている。

(当然今述べた「私の世界」は言語の限界を超えており、適切な言語表現ではない(無数の「私」がいることを想定できない。だからこそ「パズルの一片」という語で比喩的に表現しているのだ。美しい比喩は明晰に語ることができない言語の限界を超えた先にある論理を表現することができる)

これはおそらくマクロコスモスとミクロコスモスのことを言っている。

つまり大きな世界(マクロコスモス)の中に複数の小さな世界(ミクロコスモス)があり、その小さな世界の中のひとつが私の世界(ミクロコスモス)である。

「私の世界」は「パズルの一片」のように数ある世界の中の一にすぎない。他にも無数の「私の世界」が存在する。

ミクロコスモスという単語自体はウィトゲンシュタインも扱っている。

5.63  私は私の世界である(ミクロコスモス)

---ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

 「私」という存在はミクロコスモスとして「私の世界」である。

このような考え方は独我論の典型例である。だがウィトゲンシュタインは従来通りの独我論を踏襲していない。それは「あんたのはまるべき世界ってどこに~そんな大きな世界って本当にあるんですか?」という皆守の主張からも顕著であり、端的に従来の独我論を否定している。

 

ではウィトゲンシュタインはミクロコスモスという語をわざわざ挙げて何が言いたかったのか。皆守の考える世界像とは? そしてディキンソンの詩とは?

「俺はね……思うんですよ……。俺たちに外側なんてない……。俺の世界に外側なんてない……。この世界も、あんたも、そしてこの河も、あの太陽も……そしてこの………………真っ赤な空も。外側でもなんでもなく……。全部が世界でしかない……ってね。全部、俺の世界でしかないってね

ーーー皆守(素晴らしき日々)

通常我々は感じている世界とは、まず物の世界があり、その中に人間が存在する。そして人間は物を見るが、それはカメラの様に物を撮ることでしかない。物こそが実在し、それを写し撮った我々の表象は単なる像にすぎない。すなわち我々が感じる世界の中のあらゆる「もの」は実在性を伴わない偶然的なもの、あるいは副次的なものである。

(いまこうして私が見ているPCの画面もあくまで目というカメラによって捉えられた像にすぎない。だが私が目を閉じていても物であるPCの画面は実在するだろう)

我々は普段からこのように世界を感じている。それがいかに自明であるか問うまでもない。

だがこの見解にウィトゲンシュタインは一石を投じる。

我々が見るものはあくまで物の像でしかないとされているが、しかし「私が見た物は実物の像である」と言いうる(=言葉として成り立つ)なら、像と区別された実物、すなわち像がその像である実物を、我々が見る像とは別に見ることができなければならない。

カメラ(←目ではなく機械のやつね)の例を扱うなら、或る人の写真は、撮られた或る人(実物)と比べることができ、その類似を語ることができる。その点で写真は実物の像と言える。

そして先ほどのように我々が見るすべてのものを像であると考えてみる。写真も実物もすべてが我々が見る物であり、像とされる。しかしこの場合我々が見る像以外のものを見ることなど原理的にできはしない。我々が何かを見るためにはこの身体、この目が必要だからだ。それを超えて物の世界に足を踏み入れることなどできない。見ることができるのは、我々が見ることができるものだけだ。

なら、我々が見るものを「私が見た物は実物の像である」と呼べないだろう。

皆守の前にある、木村も、河も、太陽も、真っ赤な空も、全部が世界でしかない。我々の表象の世界は、物自体の世界(皆守の言う「外側」)との対比などできない。それ以外に経験などできないからだ。だからそもそも我々に与えられている表象の世界を「世界そのもの」として皆守は語る。

(ただし論理学な考え方としてである。彼が言いたいのは終始徹底して「無駄なおしゃべりをやめさせること」である)

この表象の世界を誰も超えることなどできないし、超え出でようともしない。

47 物にだけ実在性を付与し、我々の表象に実在性を付与しない者たちが、表象の世界のなかをこれほど自明に動き、その世界から外へ決してでないことは、奇妙だ、と私は言いたい。

つまり、やはり与えられたものはいかに自明であることか。与えられたものが斜めの角度から撮られた小さな像であるということなど、絶対にないだろう。

この自明なもの、生は、偶然的なもの・副次的なものであるとされている。それに対して、私が普通決して頭を悩ませないものが本来的なものであるとされているのだ。

つまり、人がそれを超えることができず、超え出でようともしないものが世界でないとされている。

ーーーウィトゲンシュタイン(『哲学的考察』)

 木村との問答は続く。

「それって独我論かい?世界が自分の脳みそだけ……自分の存在そのものが世界だって言う……」

ーーー木村(素晴らしき日々)

「それって独我論かい?」という疑問には2つのニュアンスが含まれる。端的に「独我論のことなのか?」と問うている場合と、「それは独我論の領分か?」という場合だ。

木村自身が気付いているかはともかく、皆守の木村の考え方に対する例えは徹底して独我論の領分として表されている。なのでここは後者を取ろう。どちらにせよ『論考』をテーマにしている以上、本作品における独我論は中心的な論点としてなければならない。

「さぁね……そういうものかどうかは知らないさ……」

ーーー皆守(素晴らしき日々)

皆守は自身の言葉を独我論かどうかは知らないと言う。ウィトゲンシュタイン独我論は従来の現象主義的な独我論とは異なる。

一般的な独我論は「マクロコスモスの中に生命の数だけミクロコスモスがある」や皆守の言う「ジグソーパズルとパズルの一片」のようなものが大抵であるが、結局ウィトゲンシュタイン独我論とはどういうものなのか。

「俺は別に世界に俺一人だなんて感じちゃいない。

間違いなく、目の前にいるあんたはいるし、もっと言えば、あんたらにとっては存在していなかった水上由岐やら若槻鏡やら司やらだって存在していた。

でもさ……それでも、俺の世界は、俺の世界の限界でしかない。

俺は俺の世界の限界しか知らない……知ることが出来ない……。

だから……俺は俺でしかない……。

一つのの肉体を何人もで共有してた俺が言うのもなんだけど……いや、だからこそ、俺は俺でしかありえないと思える……。

俺は、この腕でも、この脚でも、この心臓でも、この肉体でも、脳でもない。

当然、俺はこの道でも、この河でも、この空でもない。俺は……俺だ……」

ーーー皆守(素晴らしき日々)

仮に(マクロコスモスのように)感覚を超えた本当の世界があったとする。いや恐らくあるのだろう(このように言うことは倒錯だが)

我々の感覚は全てを捉えられるわけではない。例えば聴覚であったとしても聞こえる音の領域は限られている。私たちにとって小鳥のさえずりは穏やかで、心地よいものかもしれないが、聴覚を持つ他の生物たちにとってそのさえずりは同じように心地よいものであるという確証はない。いやむしろ犬でさえ我々が聞ける音の限界を超えた音を捉えることができる(犬笛なんかはそうだ)。我々の感じられる世界などちっぽけにも程がある。本当の小鳥のさえずりとはどんなものなのか。我々の見る赤色は本当はどんな色をしているのだろうか。我々の感覚を超えたありのままの……真の世界とは一体どんなものなのか。

 「内なる世界と外なる世界……。

そんなものがあるのでしょうか?

 今、あなたが感じてるすべては……外にある世界のものですか? 内なる世界のものですか?

この青空はあなたの内なる世界のものですか? 外の世界のものですか?

まるで、私達はそれぞれに内の世界を持ち、共通の外なる世界を持つように感じている。

ならば、その外の世界はどうやって至るのでしょうか?」

「……至る」

「人はどのようにして世界を正しく知ることができるのか……。

人はどのようにして世界について誤った考え方を抱くのか……。

ある認識が正しいかどうかを確かめる方法があるか……。

人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか……」

「……どうしたの突然?」

「いいえ……あなたの疑問を疑問で返しただけです……」

「ここにある世界はあなたの内なるものですか?外なるものですか?」

「内の世界と……外の世界?」

「はい……内の世界と外の世界です……。

私達は外界から、言語化されていないあらゆる情報……視覚、触覚などの感覚を通じて意識に表れるもの、感覚所与、感覚与件……センスデータ、呼び方は何でもいいですが……その様なものを受けて取って内面で世界を構築している……。

そう信じるのであれば……。

世界とは、内なる世界と外なる世界、その様な二重構造を持っている事になる……。

ならばその二つの世界はどの様な線引きをされているのでしょうか?

あなたが今口にした紅茶の味は、外なる世界のものですか? 外なる世界のものですか?

あなたが触れるそのティーカップは外なる世界のものですか? 内なる世界のものですか?

あなたが見ている私は、あなたの内なる世界の私ですか?それとも外なる世界の私ですか?

外の世界から来ると言われる情報以前の何か……

その外から来る何かとは? どの時点から外なのでしょうか? どの時点から内なのでしょうか?

視覚、触覚などの感覚から得たものはその時点で内なる世界のものです……。

私達は外の世界とやらの存在にいつ至れるのでしょうか?

だから、あなたの問いに私はこう答えます。

此処はどこであるか?

杉ノ宮区、北校、C棟、屋上

それ以上の答えは語り得ない

私、今見ている世界以外の世界……外の世界なるものを知りえることができません。

私は、私が今此処でありえる世界の文脈でしか……私の答えは……その答えを知りえるプロセスからでしか語ることが出来ません

ーーーざくろ、由岐(Down the Rabbit-Hole Ⅰ)

洞窟の外から差し込む光、その光の正体が何であるのか。そのためには洞窟から外に出て何の光かを確認しなければならない。

このようなことこそがプラトニズムの最たる論点であるが、ウィトゲンシュタインはこう言うのだ。

何かを「正しい」と言うためには「別様にありえる場合」つまり「正しくない状態」を知っていなければならない。だが実際、私という存在は「私の世界」という限界を超えて、本当の世界(外なる世界)に行くことはできない。そこは誰一人として到達できないし、確認することもできない。ならば目の前の赤が本当に「赤色でない」可能性もまた確認しえない。ならば私にとって「私の世界」が世界の全てでしかない。どんなに頑張ってもその限界を超えた世界を知りえない。

そしてそれはマクロコスモスとミクロコスモスという壮大な関係だけではない。「私の世界」と「あなたの世界」の関係もまた同じである。私の目の前にある赤いものが、隣にいる彼にとっても″同じ″赤色であるかを確認する方法など存在しない。それは「痛み」の例からも示されたことだ。それらは「別様にありえない」ものなのだ。「この赤は赤色である(トートロジー、A=A)」と言うことになんの意味があるというのであろう。

そして......俺の世界が世界であり......それに外側なんてありはしない。
だから、意味なんていらない......。
俺の世界に付け加えなければならない言葉なんてない......。
世界はジグソーパズルの一片なんかじゃないんだからな......。
ーーー皆守(素晴らしき日々)

世界はジグソーパズルの一片などではない。私にとって「私の世界」はジグソーパズルの全体と同じ大きさの″ようなもの″だ。

だがそれは外なる世界が存在しないというわけではない。自身の感覚などちっぽけなものであることは誰でも知っている。だから私の世界の限界を超えた世界は確かに存在する。到達することができないだけで存在するのであろう。

だからこそ人は言葉を用いて考えるのだ。

我々は普段意識せずとも言葉を使って世界を把握する。どんなに複雑怪奇な現象が目の前で起こったとしても言語を使うことで、文章化することができる。

言葉によってありふれた世界を説明することが出来る。でもそれはあらかじめ頭の中に入っていた「事態」の範囲だけ。

「私の世界」を超えた世界を知るために論理を用いて一つ一つ解析してもうまくいかず、言語の限界に衝突してしまう。人なる身で到達できる範囲は言語の限界によって線引きされてしまう。 

かくして「私の世界」以外に知りうる方法は存在しなくなる。

 

痛みの例からもわかる通り、世界を捉えるのは「私」であり、これが「他者」である場合は想像できない。だから「私の」という所有格は必要がなくなる。

私は「私の世界」しか知り得ない。

「あなたの世界」を見ることも知ることもできない。

だから徹底した独我論において「私の世界」は「この世界」と変化する。

 

そして最後にディキンソンの詩が皆守によって歌われる。

 だって......俺達の世界はこんなに広い......永遠の広がりを見せている......時も空間も......すべてが......」
「時も......空間も?」
「ぼくたちの頭ん中ってどのくらい?
ぼくたちの頭はこの空よりも広い......
ほら、2つを並べてごらん......ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう......
そして......あなたまでをも......
ぼくたちの頭は海よりも深い......
ほら、2つの青と青を重ねてごらん......
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう......
スポンジが、バケツの水をすくうように......
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、2つを正確に測ってごらん......
ちがうとすれば、それは......
言葉と音の違いほど......」
ーーー皆守、木村(素晴らしき日々)

ディキンソンの詩は「私の世界」が「この世界」へと変貌することを表す。

厳格な言語表現に従うことによって「私の」は消える。

そして仮にこの「私の世界」を超えて、別の世界を見たとしてもそれはまた「私」が捉えるものとして「私の世界」に過ぎない。

よってどんな捉え方をしても捉えるのが「私」である以上、どんな世界も「私の世界」となる。

そんなものを「私の」と呼ぶことには何の意味もない。だって他の可能性なんてないんだから。故に「私の世界」は「この世界」と呼ぶことが正しくなる。

 

そしてこれは人生の意味にもかかわってくるのだ。

 

生の意味と祈り

「人生の意味なんて......問う必要はない
人生が不可解であると戸惑う必要はない
この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道・・そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない......
人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから・・
それは神と同じ大きさ......
神と同じ重さ......
それは美しい旋律と美しい言葉......」
ーーー皆守、木村(素晴らしき日々)

人生の意味とは何か。
皆守はそれを問う必要がないと言うが、これは決定論的な次元での解答である。
先ほど、世界が私と同じ大きさであり、極限まで突き詰められた「私の世界」は「この世界」へと変貌することを論じた。
世界は私の世界である、という言明は言語使用における誤まりを含有する。つまり「私の」という所有格を必要としない。なぜならこの表象の世界が私以外の誰かのものであるなどあり得ないからだ。
だから人生の意味、世界の意味とは人々が共有する定義として実現しない。
ではいかにして、生の意味を知ることができるのか。
これを知るために「生と世界の価値」へと言及していく。

私という魂は世界に属さない……それは世界の限界である。
世界の意義は世界の外側になければならない、世界の中では全てはあるようにあり、すべては起こるように起こる。
だから……世界の中には価値が存在しない」
世界の中には価値は存在しない。
金も、名誉も、女も、夢も、
人権も、民主主義も、ミサイルも、政治も、
宗教も、神も、信念も、思想も、
哲学も、科学も、家族も、愛も、
当然あらゆる物語だって世界の一部でしか無い。
それらすべては世界の限界でも外側でもない。
世界……。
それは言ってしまえば器だ。
世界は器でしかありえない……。
器は、器によって満たされることなどありえない。
ーーー皆守(素晴らしき日々)

世界の中には価値は存在しない。
ここでいう価値とは絶対的価値である。つまり我々が日々の中で見出す相対的価値などではない。
自分の心が世界に価値を見出したとしても、そんなものは弱い価値にすぎない。
世界の絶対的価値とは人間の在り方、生き方にある。
ウィトゲンシュタインにとって神に祝福された正しい生き方(唯一正しい生)とは「現在のうちに生きる」ことであった。これと対比される「時間のうち(過去、現在、未来)に生きること」 は世界の中で生きることであるため、皆守の「世界の中では全てはあるようにあり、すべては起こるように起こる」に対応する。
時間のうちに生きる限りにおいて、人間のいかなる在り方など世界の中の事実に過ぎず、単に偶然的なものにすぎない。だからそこで見出される価値もまた相対的なもの(偶然的なもの)だろう。
これを必然的なものにするもの、それが「世界の意味」なのだ。
それを器である世界に満たさねばならない。

6.41 世界の意味は世界の外になければならない。
世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。---かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。
生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
それを偶然でないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるだろうから。
それは世界の外になければならない。
---ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

しかし「世界の意味」とは何なのか。
そのような大層なもの、きっと殆どの人が持ってはいないだろう。むしろ誰もが欲しがるものだ。

ウィトゲンシュタインはこう言う。

生の意味、即ち世界の意味を我々は神と呼ぶことができる。
---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年6月11日)

つまり世界の意味とは神のことなのだ。
世界の意味は神であるとされるが、それは生の意味でもある(私の限界が世界の限界であり、私の世界がこの世界であるため)

倫理は生の意味の探求、あるいは生を生きるに値させるものの探求、あるいは正しい生き方の探求である。
---ウィトゲンシュタイン(『倫理学講話』)

ここにおいて生の意味は「生きるに値させるもの」として現れる。
世界の意味は生の意味として、人間の生を生きるに値するものにし、人間の在り方を絶対的価値へと誘う。
つまり器を満たすものとは「生きる意志」に他ならない。

世界の果てが此処であるならば……。
世界は器でしかない……。
誰かが言う……人生は空虚だ……。
当たり前だ……世界は器でしかないのだから、其処に何か満ちてるわけがない。
その器を満たすモノは何か……。
金か?夢か?名声か?女か?エロゲか?
馬鹿馬鹿しい……それも器にしかすぎない。
それらは世界の一部だ。
記述可能なすべて……言葉に出来るすべて……それは世界でしかない。
世界を満たすものは、世界の外にあるもの。
主体(ボクとか君そのものぐらいの意味だよ)は、世界に属さない……それは世界の限界である。
世界の意義は世界の外になければならない、世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。
世界の中には価値が存在しない」
何となく……その意味がボクには分かる。
何処か遠くの時代の、何処か遠くの場所で生きていた大哲学者の言葉がボクに響く……。
さぁ、器を満たそう!
我々の生を照らし出そう!
ーーー卓司(It's my own Invation)

(ここでの「主体」は魂とか自我とか意識とかそんなカンジのもの。身体とは別の……私が「私」と呼ぶ存在の事)
世界も人生も、あるいはこの身体すらも空虚だ。
だから満たさねばならない。
「生きる意志」によって。
この時、私の意志と「幸福に生きよ」と囁く神の意志は等しく一致する。
なぜなら世界の意味と生の意味とは神を表すからだ。
それは由岐の言う「良き世界になれ」と祈ることと同じである。一般にこのように祈る時、それは今が苦しい時だろう。
神は苦しみからその手で解放はしない。(論考において)運命など意のままにできる癖にだ。どんな瞬間だろうと我々を見つめているだけだ。
しかしそのような時でも「生きる意志」で世界を満たすこと、それは「幸福に生きよ」に応えることである。

「だれでも知ってることだよ・・それこそ近所の八百屋の親父でも、スーパーのレジ打ってるおばさんでも、タクシーの運ちゃんでも......」
「今のとも兄さんの言葉の意味を?」
「ああ......」
「ど、どういう事?」
「人よ、幸福に生きろ!
そういう事だ……」
「うーわからないよぉ......」
「深く考えるな・・ただ、最後が命令形だってことが大事なだけだ」
「命令形?」
「ああ・・どんな不幸だと思っても、そんなものの大半が泣き言だ......
 どんな不幸と思われる人生だって幸福に生きろ!
ただ、それだけだ......」
---皆守、羽咲(素晴らしき日々)

かくして皆守と神の意志は一致する。
どんな時だろうと「生きる意志」を持ち、「幸福に生きよ」という囁きを感じること。
その時、ありとあらゆる素朴な価値はたったひとつの価値、「幸福」に包まれる。
そこに「素晴らしき日々」は現界する。

 

幸福に生きよ! Ⅱ

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「たった一つの思いを刻み込まれる?」
「そう、命令にした刻印......すべての人......いや、すべての生命がその刻印に命じられて生きている」
「すべての生命を命じる刻印......」
「そうね......その刻印には、ただこう刻まれている」
「幸福に生きよ!」
「猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ
等しく、幸福に生きよ!」
「なんだそれ......」
「幸福を願わない生き物はいない・・全ての生き物が自らの幸福を願う......
そう命じられているから......」
「それって命令なのか?」
「さぁね......ただ、実際そうでしょ?
人もまた......いいや、人は動物なんかと比べ物にならないぐらい幸福に生きようとし
そして絶望する」
「なんでそうなるの?」
「幸福は、それを望まなければ絶望なんてない
あれだよ、動物が絶望しないと同じだな」
「でも、動物も幸福に生きようとするだろ?」
「そうだよ」
「なら、なんで動物は絶望しないんだよ」
「そんなの当たり前じゃん。動物は幸福に生きてるからだよ」
「なんだよそれ......幸福じゃない動物だっているだろ」
「いないよ。動物はいつだって幸福なんだよ
死ぬ瞬間まで、全ての生き物は等しく永遠に幸福だ」
「なんでだよ」
「なんでだろうね」
「わからないのかよ」
「あはあ、そんなことないよ答えは簡単だよ
死を知らない......。
動物は永遠の相を生きている......。
だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ......」
「動物って死を知らないのか?」
「当たり前じゃない?」
「なんで?」
「だってさ、本当は誰も死なんて知らないんだからさ」
「誰も?」
「そう、誰も死なんてしらない・・死を体験した人なんかいないんだからさ......。
死は想像......いつまでたっても行き着くことのできない......。
人は死を知らず......にも関わらず人は死を知り。そしてそれが故に幸福の中で溺れることを覚えた……。
絶望とは....幸福の中で溺れることが出来る人だけに与えられた特権だな」
「特権って......どう考えても悪いもんじゃん」
「そうだね……でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた……。
空を美しいと感じた……。
良き世界になれと祈るようになった……。
言葉と美しさと祈り……。
三つの力と共に......素晴らしい日々を手にした。
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れることなく......この世界に絶望することなく……。
ただ幸福に生きよ、みたいな
ーーー由岐、皆守(JabberwockyⅡ)

永遠の相を生きる者は、死を恐れない。
だからその者は神の名のもとにいつだって幸福である(「永遠の相」)。

だがそれは人として生まれ、今こうして過ごす中で、「死」がどんなものなのかを知ってしまうのだ。

卓司や信者達のように死を恐れないだけであれば、それは宗教でもマインドコントロールでもできることだろう。でも一度知ってしまったこと、死がどんなものであるかを考えてしまったことを人は忘れない。どこかで覚えている。

人はおのずと「特権」を手に入れるようにできている。

 

けどだからこそ、人は言葉を以て世界を理解し(「事実なる世界」、「私の世界、私の痛み、消えゆく「私」)、

無限に続く空のもとにある世界を「美しいもの」として見出すことを許され(「比類なき美なる原罪、素朴なる醜美の消失」)、

良き世界になれ、ここで生きるに値する世界になれ、と祈りを捧げるようになった(「生の意味と祈り」)。

3つの力によって世界を肯定し、神の敬愛を受けた「素晴らしき日々」を手に入れることができるのだ。

 

その時、人は「幸福に生きよ!」というただ一つの福音を聴き、「生きる意志」と「神の意志」は一致する。

たったひとつの福音に応え続けるため、人は「生きる意志」を持ち、素晴らしき日々へと歩んでゆくのだ。


素晴らしき日々

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「さぁ……あなたは先に進みなさい……それこそが約束された地、素晴らしき日々のはじまり……」
ーーー彩名(Looking-glass Insects)

ざくろもまた彩名に祝福され、神の意志と一致する。
素晴らしき日々を見るため、あるいははじめるために最後に必要なこととは、あらゆる苦難を前にしても「今を生きる意志」を持ち続けること。
永遠の相のもとに世界を直観し、「今を生きる意志」によって世界を満たすことによって素晴らしき日々を感じる事ができる。

人生が不可解であると戸惑う必要はない。
「人生の意味」に一律の定義など存在しない。
世界は私に与えられている。
人生の意味とは語ることでも、誰かと語らって見出すものでもない。
それは、生には意味があるのだ、と悟ることによって、ただ示される。

7 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。
---ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)


…………。
---素晴らしき日々は開かれた。
そこではあらゆる幸福が約束されている。
まさにそれは自明。我々のちっぽけな感覚など覆ってしまうような「さいきょうのこうふく!」。
コウフク!
コウフク!
今! 世界の限界に立つ今!
神の祝福と共にある今!
開かれた素晴らしき日々をいわば外側から見て取る今!
我々には神の旋律がある!

ボクは言う。
神々が生んだ……三匹の化け物の話を………。
人間の欲望そのものである巨狼フェンリルの話。
人間の死への恐怖そのものである死神ヘル。
そして、世界最後の日に目を覚ます。永遠を意味するヨルムンガンドの話。
(中略)
ここには恐怖の代わりに興味が座っている。
ここでは戦慄の代わりに笑いが座っている。
ここには絶望の代わりに楽しさが座っている。
すごく楽しそうだ。
ーーー卓司(It's my own Invention)

我執と欲求を捨て、
死への恐怖を捨て、
永遠を手にした今!
すべては幸福の鐘の音に掻き消される!
コウフク!
コウフク!
さぁ!扉は開かれている!
「生きる意志」に満たされた世界へと、この世界の限界から降りたとう!
さぁ!君は素晴らしき日々を歩けるか!!!!!

…というのが一般に流布した『素晴らしき日々』と『論理哲学論考』のだいたいのテーゼになる。
oh……これは厳しい。厳しいというか難しい……。
ここまでで取り上げた事項は、『素晴らしき日々』の頭からつま先まで詰まっている。
つまり結局卓司のしたことも皆守が素晴らしき日々ルートに至って論じたことも、言いたいことはさして変わらない。
ただ前者はこの世界で歩こうとせず、後者は歩き始めることを決意した程度の差しかない。
「生きる意志」に満たされていたか否かの差だろう。
それだってその本質は何の目的もなく、つまり神の意志と一致しない自由意志の放棄の上で「ただ生きる」という悟りを開くことによって彼の言う意味での「幸福な生」が現れるのだ

そして幸福な人は現に存在することの目的を満たしている、とドストエフスキーが語る限り、彼は正しいのである。あるいは、生(きること)のほかにはもはや目的を必要としない人、即ち満足している人は、現に存在することの目的を満たしている、と語ってもよいであろう。
---ウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年7月6日)

生きる以上の目的を望まないこと。

それが答えで良いのだろうか。
あらゆる世界の楽しみを放棄してでも、より高位な穢れなき幸福に依存したいか。

それだけではない。
あらゆる苦難は自分の意志とは一切全く関係なく起こりうる。あるいはそれは神の意のままに起こりうると言ってもいい。しかしその時、運命を紡いだ後の神はいかなる救いも示さない。原初にて、すべての生命に「幸福に生きよ」の烙印(祝福)を刻んだきり、何もしないのだ。喜劇だけでなく悲劇をも嘲笑いながら胡座をかいて我々を玩弄でもしているのだろうか。
論考に記された倫理を中心とした「幸福に生きよ」とはもはやそのようなものでしかない。いわば神の奴隷なのだ←言い過ぎ、「敬虔な従僕」くらいが妥当だろうか(一緒じゃん)
(もちろん論考の幸福感を尊ぶことを否定はしないし、そのように在る人を直接批難したりもしない。ただ僕の所感を述べただけである。しかし安全が非常に高い精度で保障されているこの国で、神の掌の上というなんだかよくわからない別次元の領域にある安心感を求める方はほとんどいないのだと感じてしまうが)


しかし本稿はここで終わるつもりはない。
上記までは『論理哲学論考』を踏襲し続けた素晴らしき日々像でしかないだろう。
実際、本編をプレイした方々は上記で述べたような論考の一般には受け入れがたい暗黒面(本質)の片鱗を感じ取った方はいないはずだ。それくらいすば日々はその辺を覆い隠して、自然な流れで我々にテーゼを示しいる。
僕の目的は一般に囁かれている論考とすば日々の間にあるこの癒着を取り除き、その分岐点を示すことで、すば日々をより正しい(最もらしい)旋律へと導くことにある。
つまり本稿では論考に記された「幸福に生きよ」ではない、違う「幸福に生きよ」への道を提示する。この記事を読む上で必要なことはただ論理哲学論考での「幸福に生きよ」を捨てるだけでよい。ここから記述するのはそのような意図を持っている。

(そして最後に、それは見方の問題でしかないことも理解しなければならない)
そしてもう一つ。
結局『素晴らしき日々』が伝えたかった固有のテーマとはなんだったのか。
これを述べるまでは終われないのだ。別に僕は『素晴らしき日々』を批難したいわけじゃないのだから。
それは本編の中でささやかながらも確かに告げられた「素晴らしき日々の歩き方」。
あまりにごく当たり前すぎて、多分ほとんどのプレイヤーが気付かずにスルーした程度のささやかさ。
それを示すためにも本稿は上記までの論考での「ツルツルとした氷の上」から、下記で述べる「ザラザラとした大地」へと論点を移行する地点まで来ているのだろう。
開かれた素晴らしき日々を歩き続けるためにも。

 

 【『素晴らしき日々』】

上記のような『論理哲学論考』に準拠した世界との関わり方では、今までのように人は毎日を過ごせなくなる。

それはつまり「論理空間」などという奇天烈な想定などあってはならないということに他ならない。

「論理空間」を背景にした時、あらゆる風景、あらゆる世界は「ありふれたもの」へと変貌すると言う。それが言語の適切な組み合わせである限り不可解さは存在しない。

だが実際、我々はそのようなことを考えるだろうか。

牛が踊りだしたりすれば、普通に「不可解だ」と言うに違いない。

だってそれは″紛れもなく″不可解なのだ。

ではその「紛れもなさ」は何処から来たのか。

それはウィトゲンシュタインが論考にて「否」とし、我々にとって無くてはならないもの。

それは「因果」。

我々は全ての牛が四足歩行であることを″知っている″。

次の一歩が地面を踏みしめることができることを″知っている″。

その「理解」があって、現に世界がそうなっているから人は毎日を不可解なく過ごすことができる。

我々の日常、あるいは世界は、「論理空間」を背景になどしていない。

経験によって囲い込まれたもっと拡小された世界像を背景にして我々は過ごしているのだ。

だから我々が言う「ありふれた」は感覚的に捉えられる「ごく当たり前」を意味するだろう。

だからここからは上記までの論理空間を背景にした「ありふれた」ではなく、

我々の普通の感覚的な「ごく当たり前」を表す「ありふれた」の意味を中心にその語を使っていく。

この差が『論理哲学論考』と『素晴らしき日々』を明確に区分することになるのだ。

論理哲学論考』が世界に不要なのではない。それは世界を正しく見るためにある。

だがそれでも、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。

世界と関わるためには、「秩序」という名の厳格な正しさを捨て去らねばならないのだ。

6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜けーーその上に立ちーーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。

(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない)

私の諸命題を葬り去ること。その時世界を正しく見るだろう。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

 

確かな一歩

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完全な自由落下。

自分自身が助かるつもりなどない、

希美香を助けるつもりは……、

いや、本当は生きてほしかった。

ボクが死んだとしても……彼女には生きて欲しかった……。

でも……、

でもそれは叶わぬのだろう……。

数秒もせずに、彼女とボクはコンクリートの上ではぜる。ただの肉片と化すだろう……。

ーーー卓司(It's my own Invention)

屋上からの落ちれば、重力という運命に逆らえず、肉体はグチャグチャになって地面ではぜてしまう。

しかし、そんなことは誰でも知っている。何かが高いところから落ちたら壊れてしまうかもしれないということは自明だろう。

「手からティーカップを放せば、カップは落ちて割れてしまう」

それは肉体だろうがカップだろうが同じなのだ。

この、「これまでがそうだったから、これからもそうだ」という類の推論を「帰納法」と呼ぶ。この帰納法は自然科学という因果法則を信じることに他ならないものとしてここでは考えてほしい。

だがそんな推論はありえないと、『論理哲学論考』は一蹴する。

5.1361 現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。

因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタイン帰納法に対する帰結は、かなりグロテスクな推論である。

なぜなら彼の言うものに従うのなら、手からカップを落としても、そのまま落ちるとは限らない、というものだからだ。

私やその他全ての人間が重力によって「カップが落ちる」と意志的に考え、カップが予測通りちゃんと落ちてもウィトゲンシュタインにとってそれは偶然にすぎない。

6.373  世界は私の意志から独立である。

6.373 たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる僥倖にすぎない。
なぜなら意志と世界の間にはそれを保証するいかなる論理的連関も存在せず、さらにまた、仮に意志と世界の間になんらかの物理的連関が立てられたとしても、その物理的連関それ自身を意志することはもはやできないからである。
ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

論理空間にはあらゆる可能性があらかじめ累積している。論考において事実とは(「言語の正しい組み合わせ」という数えきれないほどの存在する)可能性の中から無作為に抜粋されたいくつかの言葉が実現しているに過ぎない。

「言語の正しい組み合わせ」が事実として現出する可能性を持つというのだから、彼の論理学において自然科学は全くあてにならない。つまり「人間は空を飛ぶことができる」という文も、我々がそれをどれだけ荒唐無稽な事態と感じても、文そのものは「有意味」である。人間はその文の意味を頭の中で理解できるし、実際に空中を駆けまわる人間を空想できる。

(論理空間が極めて広大な理由は、ウィトゲンシュタインが「語りうる領域を限界づけること」という超越論的な次元が目的であったからである。(自然法則的な意味での)現実に即しているかどうかはまったく考慮されえない。少し込み入った話をすれば、我々か当然と信じている自然科学でさえ、あくまで科学がこの世界を描出するために最もらしいとされているだけである。我々はその自然科学が世界の法則を表していると教育の中で植え付けられた故にそれを疑わない。ウィトゲンシュタインから言わせれば、科学は世界を表すことができるという大前提を根拠なく我々は信じ込まされている、と彼は言うだろう(卓司が演説したように)。これについては荒唐無稽と一蹴するのではなく、読者の方にも頭の片隅で知っていてほしい事項である。自然科学によって見出される自然法則を編んだと言われている神の存在は我々のそんな無根拠な大前提の下で現出されているに過ぎない。そのように自然科学は「経験」を大前提にした後天的学門でしかなく、言い方を変えればその神は我々の経験(帰納法に基づく斉一性の研究)によっていかようにも振り回される神、いわゆる″人々の信じる中に存在する弱い神″というやつである)

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(物語上、根源にあるざくろの落下や、その後派生した終ノ空事件で空へ還ると信じた信者達は、まさしく論考の帰納法における確実性の皆無を信じ、「死すれすれで止まる」や「空へ飛べば浮遊するかもしれない!」とかその教義通り「真の世界があってそこへ還る」のように思い、空へと向かったのだろう。この一連の事件は論考のこの項目を隠喩しているのだ)

 

ちなみに、この帰納法という過去経験から未来を投影する斉一性については『素晴らしき日々』の前作とも言える『終ノ空』でもすでに扱われていることである。ここでは落下についての記述が例に挙げられており、よって本作品における落下も同様の観点で捉えるべきであると主張させていただく(まさに″帰納的″に)

 科学は過去に起きた事のなかから法則と呼ばれるものを取り出し、未来を予測する。

<高いところにあるリンゴから手を離すと、過去にもそれが誰がやってもそう落ちたようにこれも下に落ちる>と未来予測する…。

我々の認識の大半も過去にあったものの再現によって、未来予測をおこなっている。

昨日、明日が来たから、今日にも明日が来ると…。

ーーー行人(『終ノ空』)

実際、物体の落下に関しては「確実だろ」とさえ言いたくなる。だがその落下の自明性もまた後天的に身に着いたものでしかない。科学も過去起きた経験に基づいて「法則」を導くにすぎない。

だがウィトゲンシュタインの言う通り、過去に起きた規則性を未来に投影することが完全な無根拠であり、ただの妄想にすぎないのだとしたら、未来は完全な闇であり、我々の経験から導かれるものは、どのような些末な期待でさえすべて当てずっぽうということになる。

ウィトゲンシュタインはこれに諦観し、論理空間という仮想世界に安住してしまう。秩序だった世界においては、これまで無事歩いてきたのだとしても、次の一歩が地面を踏みしめることができる、ということですら無根拠な推論にすぎない。

懐疑の迷路は、歩く事すら許さない……。

ーーー由岐(Down the Rabbit-Hole)

無数にある可能性を全て等価値に想定しながら生きることはできないし、全て等価値な可能性だとしたら、次の一歩が地面を踏みしめる確率などたかが知れている。次の一歩が不確かかもしれないと思えば、とても歩き出す事などできない。

だが我々はそんなことを疑いもせず、歩を進めているではないか。それはつまり、

端的に言って、我々は均等に存在するはずの多くの可能性を短慮に無視している。

(これこそがザラザラした大地を歩く我々の日常である。論理空間的にはこれは奇異性と不思議に映り、我々が奇跡的な確率を摘み取って生きていることを表す。しかし、ごく当たり前に我々は奇蹟を行っているのだ。)

しかし彼にとってどんな些細な未来もまた、神の居住区である論理空間に座す神様の御心とやらに依存してしまうのだ。

そうして自らの意志の無力さを嘆き、今自分がどのような経緯の上で立脚しているのかも怪しくなる。我々が被る運命も神が無数に広がる可能性の中から無作為に選んだものでしかないのなら……...。

人間は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。
(中略)
世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。
ーーーウィトゲンシュタイン(『草稿』1916年8月13日)

確かに論理的には、帰納法は全く根拠のない妄言にすぎない。

何を根拠に帰納法を信じているのかと問われれば、「これまでだって経験から導き出せたから」と言いたくなるかもしれないが、そうはいかない。

何故ならその言明は帰納法を信じることが根本的大前提だからである。問われているのはその根本であり、これまでだってそうだったから、という逃げは許されない。

論理的(論理空間的)には、あらゆる可能性は均等に開かれている。

その均等にある他の可能性を排除し、事態の中から事実が現出する。これが論考の世界像である。

つまり、仮に2通りしか可能性のない事態の場合にはどんなに一方が当たり前だと我々が感じたとしても、現出する可能性は50%にすぎない。

だったら、そのあり得ないと我々が切り捨てた残りの50%を無視することはできない。割合はどうあれどちらにせよ短慮に切り捨てた大半の可能性を無視することは全く無根拠といっていい。だから普段我々が行っている帰納は当てずっぽうにすぎない、と論理学者であるウィトゲンシュタインは一蹴する。

 

結論、

正当化不可能。あらゆる論理的原理をもってしても帰納法を根拠立てることはできない。

(そもそも自然科学によって世界と未来を描出する我々には原理的に根拠立てることはできないイジワルな問題である)

故に帰納法なんてものは迷信。

過去に見出された規則性が未来にも成り立つ保証は全くない。

ということになる。

6.31 いわゆる帰納法則は、およそ論理法則ではありえない。

というのも、それは明らかに有意味な命題だからである。

それゆえまた、それはア・プリオリな法則でもありえない

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考

(ア・プリオリな法則は世界秩序であらねばならない。だが帰納法と自然の斉一性の循環論法、つまり自然科学は世界秩序としての自然法則たりえない。一度定められた法則性の外側にあるものが出現した際に、適切な形へと更新されることを暗に認める法則は法則という概念たりえないのだ。つまり一度自然科学によって構築された法則性は必然な命題ではなく「別様にありうる状態を想定し続けること」を前提に編まれる偶然的な命題、つまり有意味な命題群にすぎない。要は「結果ありき」であるがゆえにその法則性を構築する「前提例」は”不動の真”たりえていない。よって真なる法則は演繹によって導き出されるとウィトゲンシュタインは言うのだ)

 

 

……だが本当にそうだろうか。

確かに論理的には存在しないかもしれないが、間違いなく我々は過去の経験を活かし、様々なものを推論し、時に修正という形で成長する。これを否定するというのは納得がいかない。

そもそも我々の未来は均等に割り振られた可能性の中からランダムに描出されるものだろうか(詳しくはDown the Rabbit-Hole Ⅱでの由岐の社会心理学の説明を参照)

空から落ちれば、地面へと落下し、叩きつけられる。

それは当たり前ではないのか。

それが論理的根拠が皆無でも、我々は何かを信じなければ歩くことすらできない。我々の見ている世界が(何の確証もなく)「正しい」と信じていなければ、我々は例え素晴らしき日々の中であっても何もかもに疑問を抱いてしまうことだろう(懐疑論)。

「信じるならば存在する……まるで神様だ」
「くすくす……そんな事ありませんよ。

それはごく当たり前の条件……。

だって、人は何かを信じる事が出来なければ歩く事も出来ない……」

「懐疑の迷路は、歩く事すら許さない……」

「次の一歩が奈落であるかもしれないと疑えば、そこで歩は止まる」
「ふぅ……つまりは疑うな……と」
「そんな事言ってませんよ……問う事に意味がない答えなどいくらでもあります……。それを問う事は無意味だと言ってるだけです……。
ーーー由岐、ざくろ (Down the Rabbit-Hole Ⅰ )

永遠の相のもとでは因果を信じることはできない。それはそこに縛られている限り、我々が素晴らしき日々の中を自信を持って歩くことなどできはしないことを表す。

あらゆるものに懐疑を抱かず、どんな苦しい事態にも「生きる意志」を失ってはいけない。全ては神の御心のまま、そしてわが身、わが生は「幸福に生きよ」という祝福のもとにある。

そんな風に毎日を過ごさねばならないのだろうか。

 

目の前の地面が、ただそれまでと同じ色をしているというだけで地はなく、その先は底なしの虚無かもしれないと疑うことがあるだろうか。我々は自身の認識を「正しい」と信じたその上で生きている。

それはなにゆえか。

経験から意志によって推測される未来、帰納法である。

与えられた素晴らしき日々を歩むため、我々はこの身を縛る永遠の相を捨てねばならないのだ。

(まさに登り切った梯子を捨て去るように)

われわれは、過去における反復から何の新たな推論もなしに生じるすべてのものを「習慣」と呼ぶのであるから、現前する印象に基づいて生じるすべての信念はただこの起源(習慣)からのみ生じる、ということを、確実な真理として確立することができる。

(中略)

われわれが自分の好みや感情に従うほかないのは、単に詩や音楽においてばかりでなく、哲学においても同様なのである。私が或る原理を確信するとき、それは、私をより強く打つ観念にほかならない。私が或る一組の議論を他のもの以上に良いとするとき、私は、議論の影響の優劣についての私の感じ(=feeling)からそう決めているに過ぎない。対象自身はたがいに、目に見えるどんな結合ももたない。われわれが一つの対象の出現から他の対象の存在を推理できるのは、想像力に働きかける習慣という原理にのみよるのである。

ーーーヒューム(『人間本性論』第1巻 第三部 第八節)

今引用したヒュームという哲学者もまた、以前まではウィトゲンシュタインと同様に懐疑論的な態度を取っていた。

(いや、正確にはウィトゲンシュタイン帰納法に対する態度は、時代的に彼由来だが)

だが彼はウィトゲンシュタインとは違い、論理空間のような秩序だった世界から脱し、我々の日常を考察する。

(本編の答え合わせ的な立ち位置(と思っている)である追加シナリオで由岐が『人間本性論』について言及しているあたり、本編での自由落下は「運命」という形而上学的側面よりも、「帰納法」という自然科学的側面の「運命」に焦点を当てているのだろうか、と勘繰ったのが本稿の試みの原点でもある。もちろんダブルミーニングでもあるかもしれない。だが明らかなのは最終的に『素晴らしき日々』は『論理哲学論考』から脱却し、ごく当たり前に行われる日常の考察へと向かっているということだ)

「印象」という言葉はヒューム独自の語彙であり、「今知覚していること」と考えて欲しい。

「現在の印象に続いて生じる信念」という言い方からも察せるように「知覚」には未来に対する我々の無意識な「思い」が伴っている。

カップを持っているとき、手を放せば落ちるという思いが伴い、この高さから落とせば割れるだろうとも思う。

空に身を投げ出せば、落ちるという思いが伴い、この高さから落ちれば死ぬだろうとも思う。

(実際、ざくろはこの当たり前の感覚を(「現実を捨て」、そして「死すれすれで生き残る」という論理的に考えれば確かに存在しうる可能性を信じた末に)失っており、それに対する宇佐美と亜由美の帰納的、あるいは本能的ともいえる態度との構図は印象的である。この場面はある意味哲学、というよりも超越論的視点の悪い側面がかなり浮き彫りになっていると感じずにはいられなかった)

そしてそれは季節に対しても同じ態度が取られる。

「それよりさ……もう夏も終わるね……」

「うん……風がだいぶ涼しくなってきた……」

「夏が終わり……秋になり、冬が来て……そしてまた暖かい春に変わる……」

「そだね……」

私達は涼しくなりはじめた公園を歩きだす。

その先へ進むために……。

ーーーざくろ(Looking-glass Insects)

我々は、夏に風の涼しさを感じれば、秋の兆しを感じるし、日が早く暮れ始めたら冬の到来を予感する。冬の中で枯れた桜の枝を見れば、春の開化を待ち遠しく思う。

ヒュームの言う「習慣」はそのような我々の帰納を人間の本能的なものとし、「人間は帰納する動物だ」としているに等しい。

ここまで述べてみると、帰納はもはや「世界像」に関わってくる。

例えば「春なのに桜が咲かない!?」とか「秋なのに暑い!?」のような事態に直面したとき、過去を参照する帰納法は役に立たない。何故なら、その帰納法が今揺らぎ始めてるからだ。

これは驚くべき事態である。

しかし、人間はその不可解なものを目にした場合、その理由を知りたがる。「秋なのに暑いのは温暖化が進んでるからだ」などのように、そうして自身の帰納の原理を維持するように法則を修正するのだ。

我々は帰納を疑うのではなく、過去の規則性を適切に捉えていなかったのだと反省する。そうして未来に起用できるように過去の規則性を捉えなおし、自身の思っていた「世界像」を考え直し、微調整を加えてゆく。

よって我々の帰納法に対する態度は何にも反証されることはありえない。

なぜならそれはウィトゲンシュタインの論理学のようなア・プリオリなものなどではなく、日々の生活の中で更新され続ける。

我々は未来が完全な闇である論理空間の中で、未来が完全な闇ではない生き方をしている。

「どったの行こうよ」

「……いこう……」
行こうよ……。
希美香のその言葉で私は理解した。
なるほどね……そういう事か……、
たぶんその感覚は……私が生まれて最初に歩いた……その一歩目と同じ感覚なのだろう……。
それを今まで忘れていただけ……。
私の最初の一歩は……たぶんこんな気持ちだった……。

私だけじゃない……たぶん世界で最初の人間だって……最初に陸に上がった動物だって……、

最初の一歩に不安を感じた。

そうに違いない。

だってそれは最初の一歩……、

違う風景のはじまりだから……、

けど、その一歩もやがて……、

日常になる。

恐ろしげな明日への一歩だったそれは……、

ありふれた風景。

日常になる。

当たり前の……ごく普通の事になってしまう。

ーーーざくろ(Looking-glass Insects)

それは本当にごく当たり前なこと。

最初は誰だって怖い。今までの経験と合致しない不可解なものに出会った時、次の一歩を踏み出すのはとても不安だろう。

でもそれだって歩いてゆくうちに、いつの間にか日常へと変貌する。

人はどんな奇蹟のようなことも、どんなに凄惨に見えた風景も日常に変えることができるのだから。

つまり必要なのは「勇気」という意志である。ざくろがシラノから受け取った勇気。我々がごく当たり前のように使っている心。

永遠の相のもとでの「あらゆる苦難」に立ち向かうために「生きる意志」を持つ必要などない。

人は自分が信じる未来を生き、迷うことなく「生きる意志」で世界を満たせばいい。

確かにその平坦な未来への歩みを創り出すための技術は、根拠や証拠立てることができない後天的に身についたものかもしれない、あるいはウィトゲンシュタインのように「うわべだけ、見かけだけの形式に過ぎない」のかもしれないが、あらゆる人間が持つ、経験の中で見出される確かな「直感」なのだ。

永遠の相のもとの直観によって我々の日常は立脚などしていない。”ここ”にはあらゆる因果が渦巻いている。

過去という像は信憑性がないと怯える必要はないのだ。

何度も季節の巡りを経験し、それにあわせて思考が癖づいてゆく。季節の巡りに驚嘆し、天変地異だと怯えることはなくなってゆく。

季節は巡る、今までだってそうだったから。

我々はそんな動物的とも言える反応に支えられている。我々が信じる未来への予感とはそのようなものだ。

だがら、この足は私の意志という確かなものの上に立脚している、と信じることが出来る

そしてそう信じるからこそ怯えることなく、また次の一歩を踏み出すことができるのだ。

(あるいはそれは祝福のように)

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風が少しだけ冷たい。

その冷たさの中で私達は手をとりあって歩き出す……、

日常の一歩。
ただ、変哲もない一歩を……踏み出す。
そのことに感謝しつつ……、
私達は生きていく……。
二人で笑いながら……生きていこう。
私は強くそう心に誓った。
多くの生命がそうであった様に……、
私も最初の一歩を踏み出す。
ここから先にあるのは、 たぶん、
素晴らしき日
ーーーざくろ(Looking-glass Insects)

 

断章:「ごく当たり前な結末」

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完全な自由落下。
自分自身が助かるつもりなどない、
希美香を助けるつもりは……、
いや、本当は生きてほしかった。
ボクが死んだとしても……彼女には生きて欲しかった……。
でも……、
でもそれは叶わぬのだろう……。
数秒もせずに、彼女とボクはコンクリートの上ではぜる。ただの肉片と化すだろう……。
ーーー卓司(It's my own Invention)

前回の項目で引用したきり、放置していた卓司と希美香の落下。

「空から落ちれば、地面に叩きつけられる」

それはざくろ達がごく当たり前な一歩を踏み出したことと同じように、未来への確かな直観だろう。

だから、卓司はその結末を諦観する。

多くの信者達が「真の世界へと還る」と疑おうともしなかったにもかかわらず、彼らはその教義に反して、帰納的で因果的な結末を予感する。

あまりにも自明な運命。

しかしそんな自明さを信じているから我々は歩いてゆけたはずだ。

次の一歩が地面を踏みしめることを疑いもしないように、落下したこの身は地面で砕ける。

だから彼らがたどり着くのはごく当たり前な結末(運命)だった。

(実際、この後に流れたエンディング曲は「ナグルファルの夜」であり、ざくろが正しい選択をした際と同じ曲がEDを務めている)

そこには何も不可解なことはないようにも思える。

ありふれた世界だ。

しかし皆守は運命に勝った。

その差は一体なんだったのであろうか。

卓司には叶えられず、皆守には叶えることができたこの差とは。

ここでもごく当たり前な帰納が扱われているものとして、本稿は『素晴らしき日々』へと向き合ってゆく。

 

運命に勝つための一歩

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勝つんだろ

運命に!

ーーー由岐(JabberwockyⅡ)

本人も自ずと知っていた不条理な滅びの運命。

宙から落ちてはぜるという自明な運命。

どん詰まりの運命の中にある皆守どのように未来を切り開いたのか。

 

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「そうだ。俺は、あのバカ女がはまっている宗教が大嫌いだ。何が世界滅亡だ……馬鹿馬鹿しい」

「2012年だっけ?」

「そうだな……ついこの前に世界が滅亡するって騒がれてたばかりなのに……」

「ついこの間?」

「ああ、そんな事が昔あったんだよ……実際は何も無かったけどな……」

「そうなんだ……」

ああ、世界滅亡なんて大昔から何度も予言されて、一度も当たったことなんて無いんだよ……。

……だから、あんな予言は嘘だし、卓司がお前のせいで救世主になれなかったなんて大嘘だ

ーーー皆守、羽咲(JabberwockyⅡ)

「これまでなかったから、これからもない」という帰納法がここでも扱われる。

皆守もまたそんなごく当たり前な感覚を有しており、逆説的に考えて「空から落ちれば、地面に叩きつけられる」という感覚を彼が持っていることを現わしている。

ましてやウィトゲンシュタインのように「未来とは何一つ根拠のないものだから、それは神の御心のまま」だとも思っていない。帰納法に基づく本稿において既に論考の論理学的概念は崩れている。

しかし彼もまた空から転落するのだ。

多くの人々と同じ、高度から転落し叩きつけられるという道を彼も歩んでゆく。

そしてその全ての人が亡くなった。

それは彼だって重々承知だったはず。

ならば彼も同じ運命を辿るはずではないのだろうか。

 

……季節は巡ってゆく。

季節の移ろいは確かなものだろう。

何故か?

それを今まで体感してきたからだ。

巡る春夏秋冬を肌身を持って何度も感じてきた。

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空が高くなり始めた頃……、

秋は渓谷の木々が美しく朱く染まる。

由岐姉と共に羽咲を連れてその紅葉の中を歩いた。

まだ、村の事をあまりしらない羽咲は、その風景に驚いていた。

俺たちなんかにとっては、当たり前になっていた風景……そんなものですら、羽咲には新鮮だった。

朱く染まる木々を見て、羽咲は驚嘆していた。

その顔が面白かった。

冬になると沢衣村は雪に閉ざされる。

それほど長い時間ではないけど……東京では考えられないぐらいの積雪だ。

羽咲と俺は雪の中で何度も遊んだ。

その頃になると、羽咲にも友達が出来ていた。

俺や、その友達と一緒に雪の中を遊んだ。

雪合戦をした。

雪だるまも作った。

かまくらだって作った。

羽咲にとってかまくらなど絵本だけの話であったらしく、その時の喜びようは無かった。

真っ白い世界で顔を真っ赤にさせて羽咲ははしゃいでいた。

こんな笑顔の羽咲を俺はそれまで見た事がなかった。

(中略)

そしてさらに季節はすぎて……、

春を迎えた。

(中略)

春の雪。

桜が舞う季節。

羽咲と俺は一学年上に上がった。

もちろん由岐姉も……、

また新しい一年は始めるんだ……と思った

夏が近づく頃……、

俺はあの日の事を思い出していた。

羽咲がこの村に最初に来た日。

父さんの笑顔を見た最後の日。

あの夏の日。

やたら日差しが強く……大地を照り付けていた。

一年しか経っていないのに……やたら遠い過去の様に思えた……。

いろいろな季節を羽咲と共に過ごし……そしてまた夏が来る。

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

自分達にとっては当たり前なものでも、初めて沢衣村で季節の移ろいを見る羽咲にとっては新鮮で発見の日々だったことが端的に示される。

同じ地に安住し、何年も過ごした身では既に忘れてしまった感覚。

だが羽咲のように、見たこともないような季節の移ろいを体感した時、人はそれに興奮し、様々なものを発見し、その事実を経験として身につけていく。いずれ羽咲もその風景に慣れることだろう。

羽咲の中にかまくらという知識はあったが、それは絵本で見たものであって、実物を見た時は大いに喜んだ。でもそんなかまくらもいずれ見慣れたものへと変わっていく。

春になれば、新しい学年が始まる。新しいクラスで上手くやっていけるかという不安に駆られていたが、2か月もそこで過ごせば新しいクラスに慣れて行く。

感動していたあの景色もすべて、我々が普通に受け入れるありふれた風景へと変貌してゆく。

向日葵の道を超えると……あの暗闇の坂道が姿をあらわす……。

去年と同じように……まるでそれは霊界に続く坂道の様だ。

古い本にはそういう記述は何個もある事に後から気が付いた。

でも実際、坂道は霊界との境界線でも何でもない……。

この坂を登り切ったところで、天国も、黄泉も、新しい世界も何もない。

ただ、ありふれた風景がそこにはあるだけだ……。

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

「奇跡」のような自然科学から例外的なものは存在しない。

(全く合理的な整合性が取れない因果律を無視するようなことが起これば、連鎖的に人々は日々に対して懐疑に陥り、それは人間の生活基盤を破壊しうる。だから「奇跡」なんてものはあってはならない)

だから一度も見たことが無い風景でも、少し引いて見ればその風景はありふれた風景だと誰でも知っている。

けどそんなありふれた風景のひとつである季節のひとつひとつを羽咲はとても美しそうに眺めていた。

ありふれた世界の中で切り取られたありふれた風景だとしても、初めて見る風景にはやはり何かを思う。

羽咲だって沢衣村に来るまでに、何度も季節を体感してきたはずだ。だからざくろが季節の移ろいを予感した時のような毅然とした態度を羽咲が取っていてもおかしくないはずなのだ。

「まぁ、そういうのってあるよね……自分では変わってないはずなのに……変わってる事って……。

登れないと思い続けてた……遠く霞む坂道とかさ……知らないうちに日常で使う坂道になっている。

時がすぎて、変わるのは景色なのか自分なのか……自分自身じゃ良く分からないよね……」

ーーー由岐(JabberwockyⅡ)

人は先に進む。

初めて見る風景でも進んでいるうちにいつしかその風景は日常へと変わっていく。

羽咲が驚いた沢衣村の季節の巡りもいつかは馴染み深いものへと変わっていく。

それはごく当たり前なことで、ありふれたことだった。

 

人間が宙を浮くことがないことも、物が地面に落ちてしまうことも、人間には翼は生えないことも、身体は鋼で出来ていないことも、

すべて生活の中でごく自然に身につけ、ありふれた知識として了解する。

にも関わらず、皆守は落下しなければならなかったのだ。

だがそれでも彼は諦めなかった。

 

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ふわりとした感触。

瞬時、空気の冷たさが変わった様な気がした。

砂と塵が月に照らされた蒼い空に舞う。

絶対に交わる事のない平行から垂直落下の世界へ……。

羽咲と俺は吸い込まれていく。

羽咲の前身が月明かりでシルエットに見えた。

接地面はない。

まるで空を飛んでいるかの様に……、

遠くにサイレンの音。

蒼く照らされた空に反響しているかの様。

俺は無限の空を見上げながら落下している。

頭上にいる羽咲を見逃さない様に……。

月が笑う。

神が笑う。

この滑稽な姿を、

この喜劇の様な悲劇を、

星々は回る。

まるでダンス。

夜空が……神が俺たちを嘲弄する、

空の器を床に投げ落とす無邪気な子供の様に……、

世界は空っぽになる。

だが俺は言う。

「くそくらえだ!」

神なんて関係ねぇ。

運命なんて関係ねぇ。

俺は約束した。

羽咲を守ると、

羽咲を守るヒーローであると、

だから、俺は怯まない。

誰が相手だって怯まない。

天国で神と会えば、そいつを殴る。

地獄で鬼に会ったら、そいつを殴る。

俺は、俺自身の手で、運命を切り開く。

喜劇も悲劇もくそくらえだ!

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

皆守が離反したのは、「神」と「運命」。
そう、神」”と”「運命」なのだ。
それらは同一のものではなく、それぞれが違うものをあらわしている。


「神」とはウィトゲンシュタインの信じた神のことだろう。その神はあらゆる苦難と幸福という運命を人々の意志とは関係なくただ編み続ける者。
我々の帰納法によって導き出した「自明の運命」を否定し、人々に勝手に抱かれた希望を、御身が編む運命によって断罪する神である。

「運命」とは、ここでは重力のこと。
多くの人が同じように考える帰納的な「当たり前」のことである。
正確に言えば「空から落ちたら、地面に叩きつけられて死ぬ」という帰納的に予測された「自明の運命」である。
ざくろ達3人の投身自殺、城山の事故、終ノ空事件での瀬名川と信者達多数という本編でのこれまでの多くの事例から「屋上から飛び降りれば、叩きつけられて死ぬ」というバイアス的なある種のジンクスが出来上がってきていると言える。
(これは客観的な視点なため、「皆守の主人公補正だ」などの非現実的なご都合的要素は当然度外視されるべきである)
つまり皆守の「関係ねぇ!」とした運命とは、このジンクスであり、「屋上から飛び降りれば、叩きつけられて死ぬ」という帰納的推論の事である。



確かに『論考』と『草稿』において神と運命は同一のものとして扱われる(論考における運命の概念はそもそも全てを調停する神と共にあるのが大前提)。
故に皆守が対立するものは「神=運命」として同一の存在だと思われるかもしれないが、『素晴らしき日々』においてこの両者は明確に区分わけされていると主張させていただきたい。
特に「運命」に関しては「重力」という自明の事柄を扱っているのがポイントだろう。そもそもウィトゲンシュタインの信じる神あるいは論理空間においては、重力が発生することもまた否定しうる。
「俺は、俺自身の手で、運命を切り開く」という皆守の空中での言明からも明らかなように、全てを調停する神に抗っていることは理解できるだろう。
帰納法はあらゆる因果関係を無視する論考において否定されるが、皆守は因果を信じている。
そして「重力に抗えない」というのは、あくまで経験に基づく帰納法である。

論考では「人間は未来永劫重力に抗うことはできない」と勝手に断定することを許さない。そして皆守が落下するまで例外なく登場人物皆が亡くなっている。
つまり皆守が由岐に鼓舞された際の「勝つべき運命」とは「(論考の)神」だけではなく、全ての人間が帰納的に信じているであろう「重力」という極めて自明な「運命」でもある。
(故に本稿では2章の卓司と希美香の落下と6章での皆守の落下とを対比しており、筆者としても2章の希美香ルートは単体として大いに意義を認めている)
よってこの両者が意味するところは相反している。一見同じ意味を表しているように見えるが、そうではないのだ。

 

「羽咲っっ」

俺は精一杯手を伸ばす。

「……」

答えはない。

いや、俺だって声を出していたのかどうか分からない。

この場所から地面までなど言葉にならないほどの一瞬であるハズだから……。

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

空中から地面までの時間など一瞬であることを我々は”知っている”。

ティーカップが宙から落ちる時のように、それは一瞬だ。

その光景を誰もが何度も見てきた。

だから、次も何かが高いところから落ちたら、一瞬で地面へと吸い込まれてゆくだろう。

でも俺は叫ぶ。

羽咲!

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

しかし皆守は諦めない。

運命に勝つと強く意志を持つ皆守にとって「地面までの一瞬」という「当たり前」は崩壊し、時間は引き延ばされる。

誰も補助無しで宙から落ちた事などない。

そこには「当たり前」はない。

先程まで涼しかった空気がいっきに熱くなる。

月の光が弱く感じた。

星はその回転により目を回し沈黙する

俺は空を走る。

神々の意志に反して……俺は走る。

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

冬場、身を裂く寒さの中で走り続ければ身体が温まるように、人は身体を動かして色々なものを感じ取る。

身体を動かすことで温まることを一度も経験したことのない人にはわからないだろう。そんな知識は身体を動かして初めて実感して得ていくものだ。

そんな中、月と星は変化し始める。

当然物理的にそんなことにはならない、それは隠喩だ。

 

本作品における「星」は神の隠喩である。

由岐が沢衣村で「落ちてきそうな星々」を見て、神の旋律を感じたように、『素晴らしき日々』において「星」は論考の神を表す。その神は運命というフィルムを回し続ける超然なる神。

皆守の「星はその回転により目を回し沈黙する」という言明は、論考の神が打ち砕かれることを隠喩する。

 

そして「月」は運命の隠喩である。

「月の光が弱く感じた」というのは、帰納的推論から導き出されるはずの極めて自明な運命の変化を表す。

しかし、「弱く」という点から月が星のように消え去ったわけではなく、皆守を見守るという態度を取り始める。

帰納的推論は誰にでも開かれているものなのだ。

それは皆守にも同様である。

「多くの人間が屋上から飛び降り、亡くなってきた」

このバイアスが月の光を強くしている隠喩である。

これが「弱く」なるとは、そのバイアス的運命から脱することであり、すば日々思想の根幹たる積極的帰納法が謳われ始める。

そしてあるいはウィトゲンシュタインの信じた大いなる神ではない、自然科学の中で人々が自然法則を編んだ「神」をこの月は表している。

月は星よりもよっぽど近い。なぜなら人が編んだ自然法則に基づく神だからだ。

論理空間を調停する神よりも随分身近な神と言える。

 

 

落下している皆守にとって、その自明性は「見る」ことによって生じたものだ。

少なくとも、「羽咲を抱いて高度から落ちる」ということに関しては、沢衣村時代に皆守の眼前にて由岐が既に行っていることでもある。この2点は対比されるべきだろう。

由岐が辿った道は皆守にとって「羽咲を抱いて高度から落ち、叩き付けられて由岐が亡くなった」という物理的な因果関係を編んでいる。

そして由岐が辿った道を皆守は体感している。

しかしそこには皆守から考えて「見る」と「する」という積極性の差が存在しているのだ。

羽咲が沢衣村で季節に驚嘆し、喜んでいたように。

そして絵本の中で見たかまくらを実際に見て興奮していたように。

人は世界と積極的に関わっていく中で様々なものを新しく発見する。それは時に驚きであり、喜びであり、感動であり、そして不安でもある。

その情感は人が歩き続けていく中でいつしか当たり前のものになる。

それは不安も然り。

どれだけ不安や恐れや畏怖があったとしても、一歩踏み出し、歩き続ければ身体の震えはいつかとまる。怯えという形のない怪物はいつしか身を潜めている。

しかし羽咲が感じた驚きや喜び等をはじめ、その後ごく当たり前のものとして扱う人間の一連の行為の中には当人の意志が介在しているのだ。

自分の自由意志で行った行動は、物理的な因果関係とは峻別される。

皆守が羽咲を助けようと必死に声を出す行為を、皆守自身は物理的な因果関係の連鎖とは考えないだろう。羽咲をを助けたかったから、身体から離脱した自分、つまり心が決定を下し、身体がそれに従ったのだと解釈する。

多くの人…皆守だけじゃなく人間は、自分の心が命令を発して身体に行動を起こさせたと自然に考えている。

人間は生まれつき物理的な因果関係と意志的な因果関係を区別するようにできている。

人は意志によって身体を動かす。そこには物理的な因果関係ではなく、意志と身体の間で因果関係が発生する。

意志と身体への理解があるから人は超自然的なものである魂なんてものを信じたりすることができる。

生きている人間の肉体に魂が宿り、死んでしまった人間の肉体には魂が入っていないことを想像できる。

そして空に散りばめられた星を死んだ人間の魂として崇めることに嫌悪を伴うような違和感を覚えたりはしない。

羽咲が死んだ父の魂の不死性を信じて星を眺めていたことで、彼女を異常者だと捉えたプレイヤーはいまい。

 

何かを見て取ることで物理的な因果法則や概念を人はごく自然に身につける。

だが実際に何かを行おうとすると必ず心が介入する。

(カント的に表せば)いわば心によって身体が触発される。

ここに意志の因果関係の連鎖が編まれるのだ。

そしてここに運命に打ち勝つ可能性がある。

 

 

自由落下……重力と言う運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。

空を飛ぶことが出来ない人間は、

空の上から地に落ちる事しか出来ない。

でも、俺は認めない

絶望なんてここには無い。

あるべきはすべき事だけ、

この瞬間にすべき事だけ、

今を生き。

そして明日を生きるためにすべき事だけ、

 「重力という運命~落ちることしかできない」という言明は上記で述べたように、帰納法によって自然に身についた物理的な因果法則であり、それを信じることによって支えられた自然の斉一性でもある(循環論法)

これは客観的な視点と言える。

その後の「でも俺は認めない」から主観的な視点へと移行する。

皆守は強い意志を表明する。

「すべき事」という表現は3章においてのざくろの「今なんて捨てません!」に対応する。その「今を捨てない」という表現はここでの「今を生き、そして明日を生きるためにすべき事だけ」へと繋がる。

つまり皆守の強い意志とは「今を生きること」となり、望むのは「昨日までごく当たり前に来ていた明日を、今日もごく当たり前に望む」という帰納法を表す。

彩名が「素晴らしき日々」と呼び、ざくろが「素晴らしき日常」と呼んだもの、ごく当たり前な日常を皆守は自身の意志をもって望む

故に皆守が行うことは意志を介在させた因果関係である。

 

絶望はない。

絶望とは何かに打ちひしがれる者が抱く感情だ。

別にそれは由岐が言うような「死」のように、人の限界の対岸にあるものを望もうとした時だけに当てはまったことじゃない。

もっと素朴に………

人から見ればごく普通のことの前でも怯えることがあるし、絶望することもある。

だが人が「生きる意志」を、あるいは「立ち向かう意志」を持てばそれは平坦な感情へと変わる。

新しくはじめることには何かを感じる。

それは怯えか、期待か。

 

多くの人が飛んで亡くなった。由岐も……。

しかし皆守は他でもない今飛んでいる。

それは新しさ。

普通人は補助具無しで上空から落下したことなんてないだろう。

その新しさの前で怯えるのか、立ち向かうのか。

その時抱く意志こそが運命を変える。

 

「生きる意志」と「幸福に生きよ」という祝福。

それは私の意志と神の意志とが一致することを表す。

しかし神が調和を齎すのではない。

因果を孕んだこの意志と手で、未来を切り開くのだ。

重力が俺たちを殺そうとする。
地面に叩きつけて、すべてを終わらせようとする。
「うぉおおおおおお!!」
空でもがく。
無駄だ、空で人は無力だ。
どんな抵抗もできない。
重力に人はまったく為す術もない。
だけど俺は空でもがく、
無力な者は巨大なものの前でただもがく。
どんな無様でも良い。
生きるためなら、俺はどんな無様な姿でもさらす。
---皆守(JabberwockyⅡ)

重力というごく当たり前な運命が皆守に降りかかる。

しかし無駄だと知りながら、皆守はただ生きるという意志を持って抵抗する。

ここかた先にある素晴らしき日々を歩むために。

「空でもがく」の裏側には意志が介在している。

世界の物理的な因果法則の前で屈し、未来に諦観した卓司とは違う。

怯えを克服し、世界と積極的に関わっていく態度を皆守は示す。

「っ」

蹴った足が建物のガラスをぶち破る。

「ぐぁっ」

ガラスをぶち破り、バランスを崩した俺は校舎のひさしに激突する。

全身が砕けるような激痛が走る。

だけど俺は羽咲を抱きしめる。

痛みなど関係ない。

俺は羽咲を抱きしめる。

傷一つつけさせやしない。

ひさしは俺を受け止めるわけではなくそのまま二人を空に放り出す。

同じ様な衝撃。

でもすでに自分が何に激突しているのかなど分からない。

バランスを崩した俺は、あらゆる場所に激突しながら校舎を落ちていっている。

そんなところだろう。

何度目かの激突……耳がキーンとする。

歪んだ音。

痛みは無い。

光も無い。

ただ、腕の中の羽咲の暖かさだけ分かる。

---皆守(JabberwockyⅡ)

皆守が建物のガラスを蹴ることができたのは、紛れもない意志に起因する。

それは彼がそうなるように望んでやったことではないが、彼が諦めず立ち向かう意志を持ち続けた故の因果として見るべきだろう。

運命に諦観している卓司にはできなかったことだ。

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月が笑う。

月が笑う。

月が笑う。まるで何も知らない様に。

この世にあるすべての、不浄。汚きもの、穢れたもの、悪しきもの、を知らないかの様に

美しい光を放ちながら、

世界を蒼く染めてただ笑う。

月は笑う。

俺は、その笑いの下をただぶつかりながら、ボロボロになりながら、落ちていった。

為す術なく落ちていった。

最後に月が視線に入る。

それはあざ笑いではなく。

悲しそうに見えた。

泣いてるように見えた。

「なんだよ……てめぇ……。

俺をあざ笑ってたんじゃないのか……。

俺を見て、泣いてたのかよ……」

---皆守(JabberwockyⅡ)

ここでのCGには星が描かれていない。このCGのひとつ前のCGでは星がきちんと描かれているにも関わらずだ。この対比は大きく考慮されるべきだろう。

星は沈黙している。

星は街明かりによって弱まっていく。
それは人々の営みによって掻き消されることを表す。
人々が暮らす”ここ”では、星が表す神が調停する運命はない。

頭の中で想像できるからといって、それが世界で起きるとは考えない。
だが月はどんな時だって我々を頭上から見下ろしている。
人々の暮らしを見守り、「私」を見守っている。

皆守が、人が切り開く運命を、その行く末を知らず、ただ見守る神なのだ。

星が沈黙することは『素晴らしき日々』が『論理哲学論考』からの脱却を意味する。
だがそれでも月は我々を見下ろしている。
ここに『素晴らしき日々』の真髄があるということだろう。

「まるで何も知らない様に。この世にあるすべての、不浄。汚きもの、穢れたもの、悪しきもの、を知らないかの様に」はかなり印象的な表現である。月が表すその神
運命を編むことすらしない、ただ未来を切り開く人々の営みを見守り、「幸福に生きよ」と囁くだけの神。

論考のような人々の因果などいざ知らずな超然なる態度で全てを調停する神でもない。

因果によって未来を切り開くことを受け入れる、人々に寄り添う神なのだ。

弱々しいながら自らの声が出た……。

なんだ声でるじゃねぇか……と思ったけど……本当に声が出てるかどうかなんて分からなかった。

良く考えてみたら……完全に静寂だった。

さっきまで聞こえていた風の音。

サイレンの音。

あといろいろな場所に激突した音。

その一切は世界から消えていた。

完全な静寂。

ああ……こりゃ……ダメだな……と何となく思った。

今まで生きてて、こんな静寂なんて聞いたことなかったから……。

これはあり得ない静寂だと思った……。

だからもう終わりなんだと思った。

ここでもう終わり……。

ーーー皆守(JabberwockyⅡ)

 皆守は「生きる意志」を失う。

いくら「幸福に生きよ」という祝福のもとにあろうとも、人は直面する事象に対して「生きる意志」を失いうる。

我々の心は鋼ではできていない。

我々の意志はグラグラと揺らぎ続ける弱い意志だろう。

 

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 「とも兄さんっっ」

「っっ……

羽咲……」

「とも兄さん……とも兄さん……」

「ははは……無事だったのか……」

「うん……とも兄さんが私が守ってくれたから……だから私……」

「やぶってばからいだったからな……やっとこれで約束を果たせた……」

「うん……ありがとうとも兄さん……」

「んじゃ……これでやっと終われるのか……」

「嘘つき……」

「嘘つき……?」

「また約束やぶる気なの?」

「約束?」

「そうだよ……約束した……

今年の夏は……あの村に帰ろうって……」

ーーー羽咲、皆守(JabberwockyⅡ)

しかし我々の生への呼びかけは終わらない。

生への誘い。

運命を切り開いたものの終わりを予感したその者にも、あるいは苦難を前にした者にもいつだってその神は同じようにその祝福を囁くだろう。

皆守の幸福の象徴である羽咲は皆守へと呼びかける。

それはまるで月の神が「幸福に生きよ」 と囁くように...

 

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鍵盤の音が俺の耳に響き……。
そして他の誰かの耳に届く。
誰かが作った曲を俺が弾く。
そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。
でも俺はその曲を弾く。
だいたい好きな曲だから……。
感動した曲だから……。
その旋律は、誰かの耳に届く、
俺以外のの誰か、
皿を洗う羽咲に、
最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、
店に集まるオカマ野郎どもに……。
音楽は響く。
店内に響く。
世界に響く。
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は……音楽を奏でる。
誰のためでもなく、
それを聴く、あなたのために……。
ーーー皆守(素晴らしき日々)

素晴らしき日々」に皆守は到達した。

それは「今を生きる意志」によって開かれた世界。

しかし皆守は旋律を奏で始める(晩年のウィトゲンシュタインがそうしたように)。

鍵盤の音が俺の耳に響き……そして他の誰かの耳に届く」は物理的な因果関係を構築している。この言明は客観的視点である。

「誰かが作った曲を俺が弾く。そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。でも俺はその曲を弾く。だいたい好きな曲だから......。感動した曲だから......」は意志的な因果関係の下にある。皆守がピアノを奏でる時、皆守が弾きたいと思う意志が介入する。

 

我々の日常もそれと同じなのだ。

人が何かをする時には、そこに因果を伴う旋律がある。

警棒で柵を殴れば、柵は砕けて音になるし、一歩踏み出せば大地を踏みしめる足音が鳴る。

その旋律は、他でもない「私」が奏でている。

我々は「素晴らしき日々」をただ享受するだけではない。

この調和の中で我々もまた旋律を奏でなければならない。

音と言葉の即興劇。

この因果にまみれた我々の、美しい音色たちの不協和音を神へ---

この日常に溶け込む私の音色をそれを聴くあなたへ---

 

  

断章:我々の日常

僕やこれを読むあなた、その他大勢が住むこの世界は帰納法と自然の斉一性を暗黙の中で了承して受け入れている。

あらゆる因果法則や自然法則を信用できないとする完全な論理的思考のもとで生きようとする限り、我々はきっと何もすることができなくなるだろう。それくらい僕達はアクティブかつ大胆に生きている。

同様に永遠の相のもとで世界を直観し続けることは、与えられた日常とこの心で感じることができる素朴な幸福をもむしろ雑然とさせる。特にこの国では無神論者が多数だ。そんな方々には本稿で述べた「素晴らしき日々像」は少々荷が重い。

実際この「沈黙の宗教」である『論理哲学論考』に安住して毎日を過ごす方はほとんどいないことであろう。

ウィトゲンシュタインも晩年には自身の手がけた論理哲学論考を「独断論」だと批判する『哲学探究』などの作成に取り組んだ。

晩年のウィトゲンシュタインの思想は、むしろ先程述べた「日常の考察」を中心に論じようとする。そこでは帰納法に対する彼の態度も伺える。

特にこれなんかは本稿で取り上げたウィトゲンシュタイン像を大きく変えることだろう。彼は帰納法に対しこんなことを『確実性の問題』にて述べている。

私が私の世界像を引き受けているのは、その正しさが確認済みのものだからではない。

さらに私がその世界像の正しさを確信しているからでもない。

私の世界像は私が受け継いだものであり、ものごとの真と偽を区別するのも、その世界像を背景として為されるのである。

---ウィトゲンシュタイン(『確実性の問題』)

「世界像」とは上記でチラッと使っていたように、無根拠な信頼を前提とする帰納法によって編まれた世界を表す。イメージとしては自分の頭の中での「世界とはどういうものか」というもの。

例えば、置いてあった鉛筆が無くなっても「自然消滅した」とか「ひとりでに移動した」とは考えない。だから鉛筆がどこへ行ったのか探すことができる。何故なら確かに鉛筆はどこかにあるから。 

「わすれもの」があれば、わすれた何かを探そうとするし、絶対どこかにあるから見つけることができると信じている。

この暗黙の了解を鵜呑みにして我々は行動するのだ。

論理的根拠が無くとも我々は合理的に日々を過ごすことができる。

論考を経たウィトゲンシュタインだって晩年には「素晴らしき日々ルート」の皆守のように因果の旋律を奏でている。

つまり「素晴らしき日々ルート」はウィトゲンシュタインの史実をある程度リスペクトした作りになっているのだろう。

(向日葵の坂道と違い由岐が成仏しているのは、彼女が永遠の相を主張し続けたからなのだろうか)

そして晩年に至るまで、彼は「生の意味」についての態度を変えなかった。

そんな彼は最後にこう言って人生を締めくくる。

「私の人生が″素晴らしい日々″であったことを皆に伝えてくれ」と。

 

「生きる意志」を持ち続ける限り、生と世界の意味という絶対的価値に満たされた素晴らしき日々は開かれている。

しかし我々がこの素晴らしき日々の中を実際に身体を動かして歩いてゆく時、全てが「永遠の相」のもとにあるのではない。

僕達はこの偶然だらけの「流転の相」に生きているのだ。

 

 

断章:ずっと遠くの「星」、ずっと近くにいる「月」

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星と月。

この対比はもう少しだけ語っておこう。

本編では皆守の落下以外にも多くのCGで月があったりなかったり、星があったりなかったりしている。その時々のCGの細かい解釈は個々人に任せるとして、言明として印象的なものを2点ほど挙げる。

これを語ることで、先程の星と月の対比がより強固になることだろう。

「それにしても夜空って遠いっすね」

「ああ、そりゃ...ここから見える空は...夜空は基本的にとてつもなく遠い場所からの光だからな...」

「とてつもなく遠い場所からの光か...そう言えば、こうやって見えるのって、すっごく昔に光ったものなんですよね...」

「ああ、そうだ...」

「なんか、うらやましいですね」

「うらやましい?」

「はい、私の声はすぐ近くにしか届きません...というかすぐ近くの人にすら届かない...私の声はどこにも届きません...」

「どうせ、近くの人に届かないなら、もういっその事....ずっとずっと先のずっとずっと遠くの誰か分からない人にだけ届けばいい.....」

「ずっと先のずっと遠くの誰かか.....」

 ---希美香、卓司(It's my own Invation)

夜空の瞬く星は「ずっと遠くの誰か」を表す。

ここでの「誰か」とは神のことだろう。

希美香が柵を警棒で叩いて奏でる旋律は、(ずっと近くにいるはずの)卓司と、ずっと遠くにいる神に奏でられる。

これは皆守と同じく、神に向けての旋律であろう。

(希美香は近くにいるけど届かないと諦観したのに対して、皆守は誰かに届けようとしているのだが)

しかし柵には限度がある。無限じゃない。

彼女が奏でる旋律にも限度があるのだ。

この世界は、寿命とか含めて有限なるもの(楽器にもガタがある)で構成されている。

つまり星に対して旋律を奏でるとは、この有限なる世界で生きていることを表すのだ。

(私と神の意志は一致する)

もちろんここでの意味は論考の世界観で生きていくことを誓う意味でだが。その世界観では希美香が旋律を奏でようと思って警棒で叩いたとしても、旋律が鳴り響かない可能性も十分ある。だからこそあの場面で旋律が鳴り響くことは、皆守のような「奇蹟」ではなく、ミラクルを含む「奇跡」として現れる。

 

「いやぁ......すんげぇ星空だ。まるで星が落ちてくるみたいだ...」

「でも星なんか落ちてこないけどな」

「そだね......星はおちてこない......おちてくるのは遥か先の世界で星が発した光だけ......。

世界って面白いな......」

「何が?」

「いや、だってさ......あんな遥か遠くの世界の光だって見えるんだよ......」

「それのどこが不思議なんだよ」

「ぼくたちの頭ん中ってどのくらい?」

 ---由岐、皆守(JabberwockyⅡ)

由岐がディキンソンの詩を諳んじるのは星空を見て触発されたからだった。

ここでも星の光は神を表す。

多分全プレイヤーの中で一番印象に残っている「幸福に生きよ」をはじめとした由岐の一連の主張は、星の光に基づいているのだ。

(その内実は、その後に現れる月が表す神にも適用されるものだが、星と月が表すその二つはやはり見方の問題でしかない。物の見方に対する考え方が論考のように世界ありきか、我々のように経験ありきかの違いだろう。)

 

しかし先程述べた皆守にとっての神を表す月は星よりもずっと近い。

それが何を意味するのかは既に述べたが、星の光はずっと昔の光がここに届いているのに対して、月は常に我々を「今」見つめ続けている。

それは何も知らず、皆守の顛末に悲しみを抱いていた。

我々が運命を担い、その神は永遠の相のもとで世界を見続けている。

運命を切り開く我々に寄り添いながら、何も知らず無責任に「幸福に生きよ」と囁く神。

(イメージとしては、論考とは人と神の立場が逆なのだ)

そして前半部で述べた「地獄までの道は善意でできている」は、運命を切り開くことを許していた月の神を見た後の皆守を考慮すれば、先の解釈は大幅に変化する。

つまり「素晴らしき日々ルート」での皆守が言った「地獄までの道が善意でできている」ことは、人々が全能ではないからこそ運命を切り開く中で時に齟齬が起きうる、という程度に収まるだろう。

そしてそんな齟齬の中でもその神は何も知らないくせに無責任にも「幸福に生きよ」と囁き続ける。

 

纏めると、

宇宙の果てで世界を見つめる強い神。

空の上から人々を見つめる弱い神。

そんなカンジだろうか。

 

※勝手なことを言わせて頂けば、僕の中での星の解釈を強固なものにしているのは陰陽師占星術。 当時は星を「秩序あるもの」として見ており、その動きの機微を感じとることによって吉兆を占っていた。 

星が僅かにズレでもしたら、「秩序が乱れた!」として厄災を抑えるための祈祷を行なっていたそうです。

(ちなみにこれはマジの余談だが、当時は「占い」のイメージにある水晶玉なんてものは日本にないので、裸眼によって星を見定めていたそうです。いやぁ卓越した視力と記憶力を持つ天才にしかできなかったんですねぇ)

 

 

終ノ空

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本編で最後に到達するであろう「終ノ空Ⅱ」。

本稿前半部に基づく世界観、つまり『論理哲学論考』と癒着し続けた場合、このルートへと直結するものとして筆者は見ている。つまり論考という梯子を投げ捨てなかった場合のルートである。

このルートは、4章の選択肢によるルート分岐において皆守が自らの意志を「どうでもいい」と蔑ろにすることによって到達するのだが、この選択肢を選ぶと、運命に勝つために屋上で由岐に見送られる際、淡泊な会話が繰り広げられ、夕空を背景にした皆守と由岐のCGが登場しない。

ここから解釈できるのは、「現実で起きること」だけを重視する思想であり、落下の際に皆守の意志が反映されず、そのまま地面ではぜた(と思われる)こと。

整理すると、「世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる」が反映されていて、意志的な因果関係の廃棄が行われたことだ。

皆守の例から、個人の自由意志は世界で無力である、という条件下のため、残るのは「物理的な因果法則」と「因果法則を信じることは迷信である」の2つであろう。

前者が自然科学の立ち位置で、後者が『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの主張であり、両者は対立関係にある。

このことを踏まえて、軽く考察していこう。

 

 

このルートにおいて水上由岐は唐突に世界に出現する。

どの世界線の由岐なのかはわからない。

だが現に水上由岐は存在している。

ここから由岐は彩名とともに、この現象について仮定を立てて推論してゆく。

「仮定1……もしあなたが……間宮皆守が作り出した人格の一つなら、あなたが存在する事こそ、間宮皆守の肉体が存在する理由……。」

(中略)
「仮定2……あなたの存在が解離性同一生涯によって引き起こされたもので無い……。
あなたの存在はまさに過去実在した人物。水上由岐の魂である。その魂が間宮皆守に宿ったとしたならば……あなたがここにいる理由とはすなわち……。
間宮皆守の死を意味する……」

(中略)
「仮定3……もしこれがあなたが見ている夢であるならば……目の前にいる私は……夢の産物……」

(中略)
「仮定4……あなたは私が見ている幻覚……私が作り出した幻……つまりあなたは存在していない」

(中略)
「仮定5……いまだに、あの夢から覚めていない……」
「あの夢?」
「高島ざくろの自殺に巻き込まれた水上由岐……彼女が見た夢の続きが今この瞬間」

(中略)

「仮定6……”幽霊部屋……終ノ空”の記憶は誤った記憶……。
度重なる、人格の入れ替えによって起きた記憶混乱がみせた夢……。
飛び降りる高島ざくろが水上由岐に激突した事実は無い……単なる記憶の混乱」

ーーー彩名、由岐(終ノ空Ⅱ)

仮定1~6と最もらしい推論をしてゆくがいまいち納得がいかない由岐。

どれがお好み?と問いかける彩名。

そして最後の注釈が告げられる。

「仮定7……すべての存在は一つの魂によって作り出された……」

(中略)

「すべては‟私”……醜いあの娘も……きれいなあの子も……。

いじめられているあの惨めな少年も……いじめている少年も……。

惨めなあれも、汚いあれも、美しいあれも、誇らしいあれも、すべてが‟私”……。

世界は‟私”だけで出来ている……だから、私はあなたを理解する。

あなたの痛みを理解する……あなたの悲しみを理解する……あなたの喜びを理解する……。

世界は無数の‟私”があるだけ……」

ーーー彩名(終ノ空Ⅱ)

世界にはひとつの魂しかない。

だから我々は互いを理解できる。

確かに感じるこの魂もまた、なんら特別なものでもなく、普遍的不変の一部の現象。

「グロテスクな推論だね……」

「でも……仮定7ならすべてに説明は付く……あなたが感じた、この不可解な世界すべてに……」

ーーー由岐、彩名(終ノ空Ⅱ)

当然そんなものは受け入れがたい。

記事を書く僕は、「僕」でしかない。

今記事を読んでくれているあなたは、僕でもなく、そして僕以外のその他多数すべてでもなく、他でもない「あなた」でしかないと信じている。

説明がつくからといって、そんな推論は荒唐無稽だろう……。

 

本稿と真摯に触れ合って頂いた方はおそらくすでにお気付きの通り、「終ノ空Ⅱ」のテーマとは帰納法に対する問題提起とかその辺なのでしょう。

我々は観察や実験によって結果を知り、それらしい原因を推論する。そして因果の法則性を創り出そうとする。

何の脈絡もなく水上由岐は登場した。

由岐の出現について、我々が言う物理法則や自然法則の成立例に準じて、推論を行う。

仮定1~6というそれっぽい推論を立て、仮定7というグロテスクな推論にたどり着く。

だがそんなものはどこまでいっても結果ありきだ。

「答えが先にありきだからだよ……。答えが先にあってそれに現実を合わせてきたからだ……。
(中略)
答えありき……答えから無理やり導き出される現実……そりゃ現実は歪むわな……。
欲しい答えが、現実に合う事なんてどれだけあるんだろうなぁ……」

ーーー皆守(Jabberwocky)

人が立てられる法則性など究極の真理の前では無力だ。

帰納法に基づく限り、由岐の存在への答えは出ない。

ならばどうすればこの由岐を受け入れられるか、とプレイヤーは問われる。

答えは何度も述べている。

帰納法を捨て去ればいい。

あらゆる因果を捨て、永遠の相に生きればよいのだ。

全ては神の御心のまま。現実はただそのようにあるだけ。

空は、どこに続いているのだろうか……。

たぶん、

世界中の空とつながっているんだろう……、

だとしたら……この空とーー

ーー終ノ空

つながってはいない。

……、

なぜなら、

それは、

あってはいけないものだからーー

けどーー

それは本当だったのだろうか?

「----」

どこかで私を呼ぶ声がする。

私を呼ぶクラスメイトの声……。

だから私は振り返る……。

「音無彩名さーん」

「はい」

ーーー由岐、彩名、美羽(終ノ空

ここにおいての「あってはいけない」はもはや「ニンゲン」という矮小な生物のエゴに過ぎない。

2章以外では我々が「空」と呼ぶものが世界の限界を表しているが、2章では宇宙の果てが世界の限界を表している。2章では思考しうるものすべてという「論理空間」を含有して、それが世界の領域内としているからだろう。

だから「空」と「終ノ空」はつながっていない。

世界の限界が「空」ならば、我々がいう「ありふれた世界」が世界の可能性だが、世界の限界が「終ノ空」ならば、言語の限界という「ありふれた世界」が世界の可能性となる。

由岐は「空」を世界の限界としたいようだ。ならば空と終ノ空の狭間にある我々の日常では短慮に無視されている事象群もまたあってはいけない。

その事象群こそ(帰納法的に)不可解だからだ。

だが、人間の生活規範そのものである帰納法に「それは本当だったのだろうか?」という懐疑論をぶつけることによって、人間視点で言う「穏やかな日常」を構築するための「私の意志」はほんの僅かな欠片を残して粉砕されてしまう。

ここで突然視点が由岐から彩名に変わり、由岐が跡形もなく消えるのはまさにこれを表している。

幸福な人は現に存在することの目的を満たしている、とドストエフスキーが語る限り、彼は正しいのである。あるいは、生(きること)のほかにはもはや目的を必要としない人、即ち満足している人は、現に存在することの目的を満たしている、と語ってもよいであろう。
---ウィトゲンシュタイン(『草稿』)

あらゆるもの(自分が構築してきた常識)に懐疑を抱くことによって「ただ生き続ける意志」だけが疑いようもない「私の意志」と呼べるものとして辛うじて残り、それ以外は「信用出来ないもの」として廃棄される。

本稿前半部で散々述べたように「ただ生き続ける意志」は神の祝福のもとに「善」であることが確かめられている。

(生の意味は「生きるに値するもの」として悟ることによって真に神の意志と一致する)

故にここにおいて私と神の意志は一致する。

「はぁ、はぁ……ったく探したよぉ」

「ったくどうしたのよ一人でこんな場所で?終業式始まっちゃうよ……」

「始まる……」

「そうだよ……始まっちゃうよ……」

「くすくs……」

「ど、どうしたの?」

「終わったばかりなのに……もう始まりなんて……」

「え?」

「いいえ……行きましょう……」

「その始まりの地点へ……」

ーーー美羽、彩名(終ノ空Ⅱ)

始まりの地点……開かれた素晴らしき日々(神の言う日常)の中を、永遠の相のもとで生きることができるだろうか。

日常の中で永遠の相を体現すれば、由岐のように生きる意志で世界を満たし続けることができず、その意志すら消えてしまうだろう。

なぜなら‟ここ”ではあらゆる楽しみを意志的に生成することすら許されていない。

あらゆる楽しみ、あらゆる喜び……、

それらもまた全て「奇跡」という名の運命の恩寵にすぎないのだから……。

 

……

さて、本稿では本編の演出の都合上、この位置に「終ノ空Ⅱ考察」を置いたが、今一度問いたいのだ。

我々は素晴らしき日々を歩けるだろうか。

まさにその教義通りに歩く事ができるのか。

僕なら無理だと思う。

こんな「ツルツルとした氷の上」を歩ける気がしない。

「ザラザラした大地」を自らの足で歩きたい。

論理哲学論考』が否定した、この素朴で無根拠な安心がいかに尊いかを体感する。

別に「終ノ空Ⅱ」は何も悪いことはしていない。我々がなんとなくバイアスがかってこのルートだけ異端で気味の悪いものにしているだけで、その本質は散々言ってきた『論理哲学論考』に準拠している。

本稿の目的は何だったか。

それは『論理哲学論考』と『素晴らしき日々』の癒着を取り除くことだった。

もちろん普通の感覚を持つ人は「終ノ空Ⅱ」に震撼させられているのだから、ある意味『素晴らしき日々』の伝えたかったことは成立しているのだろう。だが、これを以てしても『論理哲学論考』と『素晴らしき日々』を連結して捉えるのが風潮のように僕は感じる。誰も後期ウィトゲンシュタインの存在を提起しない。

その連結に依存していては皆守を救えないのだ。まさに自由意志の放棄を意味する「どうでもいい」を選択した時、彼がどのような末路を辿ったのかをなんとなく想像できるように。

しかしその点で「終ノ空Ⅱ」は『論理哲学論考』が最終面で告げるテーゼ、「登り切った梯子は捨てさらねばならない」を‟ある意味”見事に表現しているのではないだろうか。極端に逆説的ではあるものの、我々を『論理哲学論考』の呪縛から解放するための素晴らしい一手のように僕は感じたのだ(当然、僕の思い込みの可能性は最後まで否定できないのだが)。

 

そして本稿をここまで読んだ方は思っているのではないか。

「永遠の相ってゴ〇じゃん……」と。

確かにその通りだ。それは「世界の見つめ方」であって、「世界との関わり方」ではない。そんな関わり方をしていれば、懐疑の迷路に迷い込むだけだ。

だが本稿では、この「永遠の相」がいかに肯定的に扱われているかを考察する。

具体的には「向日葵の坂道」の考察だ。それは追加シナリオである「Knockin' on heaven's door」の解釈にも繋がる。

ウィトゲンシュタインが死の直前に告げた「素晴らしき日々」、前作の作品名である「終ノ空」という2つの語とは違い、「向日葵の坂道」という語は『素晴らしき日々』特有の固有名詞だ。

告げられているテーゼもまた『素晴らしき日々』特有のものであると僕は考えている。

(「素晴らしき日々」という単語は「帰納法」や「因果」などの「日常」を研究した後期ウィトゲンシュタインの思想が含有されているため、『素晴らしき日々』固有とは言えない)

長い記事なのは重々承知だが、もうしばらくお付き合い願いたい。

 


断章:「魂」は存在するのか 

魂の永遠の相が実現すると言ったが、そもそも魂なんて存在するのか、という疑問は当然あるだろう。
愛なんていう抽象的なものを取り扱うエロゲに携わる方であれば、魂もなんとなく存在するんじゃね、という意見を持つ方も少なくないだろうが、ほとんどの人がそんなものは科学的実証性がないから存在しない、と言うと思う。それくらい現代はテクノロジーの絶対性に汚染されていると感じる。
あるいは意識という言い方に変換して、追加シナリオで語られたように「意識なんて脳の発火現象だ」と言うことで「魂」がなんか超常現象的な凄いオーラみたいな浮遊体ではないと科学の立ち位置から断定できそうだ。
では「魂」は存在しないの?
結論から言えば、僕の立場は「存在する」である。
僕の意見としては「魂」は存在する。″僕の意見として″は。
別に逃げているわけではない。ただ決定論的な立場が嫌いな相対主義者なだけである。もっと言えば科学絶対史上主義とかクソくらe...あまり好きではないのだ。
人間は帰納によって生きる生物だ。故に科学もそのようにできている。
科学は人間の帰納法と自然の斉一性の循環が信じられて実現する。つまり「これまでもそうだったから、これからもそうだ」という帰納法に基づいて、自然法則は編まれる。
要は結果ありきなわけだ。
なるほど結果ありき...、この立場を利用して考えてみる。
これに定位して(実証性とかじゃなく)考えてみれば科学の中で最も「魂」に近い存在は「電子」だ。*1
電子は見えないし、大きさもわからないし、触れることもできない、いわば量子みたいなもんだ。
ただ負の電荷を持っているから電圧をかけられると、何らかの影響を受ける粒子として知られている。
つまり電子は一連の実験の観察結果から整合性を取るために秩序づけられたわけだ。それが今教育の場で生徒達に教えこまされていて、一般的な概念へと変化している。
つまり「整合性がとれて」、「一般的な概念化」が成されていれば、帰納法に基づく簡単な(屁理屈じみた)存在証明ができるわけだ。
では「魂」はどうか。
僕みたいに魂を信じている人は世界的に見れば少なくないのではないか。地域にも寄るだろうが、死後肉体から離れてふよふよとどっかを彷徨ったり、お星様になったり、天国に行ったりする、などの死生観を形成しているだろう。一般に流布した「魂」という概念で一定数の人達の中で整合性の取れた死生観を形成できている時点で「一般的な概念化」は成されている。
「魂」を信じることによって、死後に期待を持ったり、安心して毎日を過ごすことができている。それならそれでよいのではないのだろうか。
別に科学を否定しているわけではない。それこそ極端な発想だろう。
僕は科学が導く未来を享受するつもりだし、どんな形であれより良い世界を求めている。
ただ、「○○の法則」などに従い完全な決定論を突き詰めれば、それは「自由の抹殺」へと繋がるだろう。
(これに関しては『サクラノ詩』やフルボイスHD版での追加シナリオまででも一貫しているように思える。『サクラノ詩』では「IV What is mind? No matter. What is matter? Never mind.」という脳科学の言葉遊びによって、心身の一元論、二元論の議論に対する態度が窺える。その答えは「気にすんな」というものだった。
また追加シナリオで言われたように、「脳の神経細胞を取り出してその発火現象を観察することで「意識」を解明しようとする昨今の研究が例に出されるが、神経だけを取り出してその発火現象を見たところで、それに対応する身体が無いから、「意識」と断言して呼べるかどうかは怪しい」とされて心身は切り離せないという主張が暗に為される。それに加えて、「だからといって哲学的視点から「意識」の解明は不可能である、と独断論的に主張することもできないだろう」とするシナリオライター氏の主張も添えられる。
彼は科学も哲学も否定しているわけではない。
ただ科学にしろ「悪魔の実験」にならざるを得ないし、哲学や「終ノ空Ⅱ」のような信仰に基づいた宗教でも「独断論」にならざるをえない。そんなもので掲げられるものは(いわば「終ノ空Ⅱ」と類似した形で)「私の意志」という自由を抹殺することに他ならない。
それこそ後述する「真理の相対主義」という言葉は一貫したシナリオライター氏の態度を的確に表しているだろうし、その言葉遊びが表す「真理の相対主義」によって『サクラノ詩』で鳥籠に閉じ込められた水菜が「自由」を得ているのだ)
手元から葉っぱを落とした時に全ての葉が完全に同一な軌道を描くことだってないのだから。
それでもなお、科学などを掲げて絶対主義や決定論を主張する人にはこう言ってやればいい。

実力がなきゃ言えない真理なんて真理でもなんでもないんです。それは強者の理屈でしかありません。
ああいう連中は、すぐそれっぽいこと言うんですよ。
自分がたまたま成功してるだけなのに。
---長山 香奈(『サクラノ詩』Ⅴ The happy prince and other tales )

凡人は凡人なりに真理を見つければいい。
日々を過ごす中で「法則」なんて堅苦しいカデゴリーを必要としないように、
我々は自分の日常から導き出される真理を以って日々を過ごせばよいだろう。
確かに論理哲学論考からすれば、我々の日常は僥倖という名の奇跡の連続だ。
けど僕達は奇蹟の中で生きている。
本当の真理の前では、人の身で掲げる真理など、些末なことに過ぎない。それはどんな人間でもだ。まさしく「それっぽい」だけなのだろう。
極端に考えてみれば、我々はいわば「真理の相対主義」のもとで日々を過ごし、それぞれが無根拠にも確かな一歩を踏み出し続けている。
つまり僕にとっての、『論理哲学論考』からの得た最たる教訓とは「幸福に生きよ」でも「永遠の相に生きること」でもないのだろう。
それは「6.432 世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない」が表している真理への態度そのものなのだ。

 

(自然法則が帰納でしかないというが、それに基づいて未来を予測するならそれは演繹じゃないのか?と思うかもしれないが、ウィトゲンシュタインはその自然法則の形成過程を問うている。自然法則という前提が帰納でしかないが故に、我々が日常的に行う自然法則に基づいた演繹も迷信だと彼は言う。確かにその通りに思う。けど虫のいい話ではあるものの、我々は経験を信じることができないと懐疑論に陥るだけだろう。もはや何も信用できないのだから。

だから僕は経験を信じるし、これからもそうやって生きていく。しかし重要なのはそれが「些末な真理」でしかないことを自覚することなのだ。自然科学や自分の経験におごらないこと、世界は僕を驚かしうることを感じることが大切なのであろう)

 

向日葵の坂道と永遠の相

我々の日常は因果にまみれている。だから人は臆せず日常を過ごすことができる。
そして我々は皆守のように素晴らしき日々の中で旋律を奏でている。
しかし我々が旋律を奏でる時、あるいは意志を持ち確かな一歩を踏み出す時、永遠の相は崩れている。なぜなら永遠の相とはあらゆる因果を捨て去ることに他ならないからだ。
自由意志に基づく因果もまたここでは機能してはいけない。意志的な因果があるとすればそれは神の意志(生きる意志など)を実行することだけである。
そして一枚の絵画が描かれた内容全体で美を見出されるように、世界全体で美を見出すことができなければならない。
しかし残念ながら、(皆守が琴美の前で彼女を憎んだように)我々は世界の中で生じる世界全体からすれば些末な出来事の前で世界を呪い、落胆することがあるし、神の意志でもある生きる意志を失うこともある。
この身体を通して世界を捉える限りにおいて、因果を捨て去り、あらゆる醜美を愛することとは生の苦しみから解脱する仏の所業なのだ。

論理哲学論考』の暗黒面とも言えるこの「永遠の相」をどのように解釈するのか、が『素晴らしき日々』制作のひとつの課題であったのは、言うまでもないように思える。

ではどのように受け入れられているか。

俺たちはあの坂道を登っていく。

羽咲ははしゃぎながら登る。

幼い頃は……あれほど苦労した道……。

登れないと思い続けた……あの遠く霞む坂道も今では散歩道程度……。

ーーー皆守(向日葵の坂道)

このルートでも帰納法が扱われている。

最初は無理だと思えた道もいつしか日常で使う道のように歩くことができる。

時が立てば、世界に慣れていく。

それは私達が生活する現在に過去と未来が含まれていくからだった。

時がすぎて変わるもの……その風景……。

「うわぁっ」

「すごいきれいっっ」

「すごい、すごい、空がこんなに大きいっっ」

「こんなだったんだな……この丘の風景って……」

「……そうだな」

記憶でも美しかった……この丘の風景。

でもその記憶に劣らず……今、この瞬間も美しい。

ありふれた景色。

ありふれた世界。

たぶんずっと、ずっと変わらない風景。

それがとても美しい。

ーーー羽咲、由岐、皆守(向日葵の坂道)

何年経っても圧巻な景色は存在するだろう。世界はその美によって人々を魅了する。

世界と関わっていく中で、人は「変わっていくけど変わらないもの」を見つけてゆく。

皆守たちが見たその丘から見える風景は、季節の巡りによって姿を変えるだろう。

だが、それでもどんな季節であろうともそれは変わらず美しいのだ。

時が経つ中で、日々の風景に慣れてゆく。けれどそんな中でも同じ様に絶えず美しさを持つものがある。

それを世界の美しさとして見ること

そこに永遠の相はある。

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青空を見上げる。

空は……人が見ることが出来る、もっとも遠い世界だ

無限とも思える遠い遠い世界。

我々の頭上にはそんなものが広がっている。

ーーー皆守(向日葵の坂道)

ここでいう「空」は世界の限界を表している。

追加で言うなら、卓司たちが到達した宇宙の果てにある「終ノ空」という名の世界の限界ではない。

「空」の下は牛が踊りだしたり、アンハッピーセットなるものがある世界ではないのだ。‟ここ”では日常の中で囲い込まれた「当たり前」しか存在しない。牛は四足歩行だし、ハッピーセットしかない。

(希美香が「宇宙は檻の外」と言うなら「空」は鉄格子のようなものなのかもしれないが)

「空」人がこの日常の中で見ることができる最も遠い世界。

肉眼で宇宙を見ることはできないのだ。

(あるいはそれは「論理空間」の中にある、成り立っていないだけの事情群を我々が普段短慮に無視するように)

 

ここにおいて「世界の限界」は再構築されていることが確認される。

その世界の限界の内側には我々が普通に日常的に予想し、理解する事象があるとして、論考での世界の限界を表す「終ノ空」と対比される。

(哲学者:野矢茂樹が著書で言うところの「行為空間」というやつである)

考えてみれば不思議なものだ……、

我々はこの地上で有限なもの……小さなもの……変わりゆくもの……そういったものに囲まれて暮らして、

それをありふれた日常として生きている。

けど、その真上には、人が決して到達出来ない……人がその限界を知る事すら出来ない……無限が広がっているんだ。

ありふれた風景の上に……あたりまえのように広がる無限。

我々はそんな世界で……生きている。

ーーー皆守(向日葵の坂道)

引用部での「ありふれた」は言語の組み合わせの数だけある「論理空間」の中にある可能性(事態)よりもずっと拡小されている。

そんな浮世離れした「ありふれた」ではなく、個人の経験に囲い込まれた「世界像」がここでは言われているのだ(どの牛も四足歩行だと確信された世界)。

「神秘とは……世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである……」

「限界づけられた全体として世界を感じること、これが神秘なのだ……かい?

「ああ……そうだな……」

ーーー皆守、由岐(向日葵の坂道)

皆守と由岐は『論理哲学論考』の命題を引きながら世界を語る。

6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

 

6.45 永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体としてーー限界づけられた全体としてーー捉えることにほかならない。

限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

しかし本編で引かれている『論考』の命題は、論考の諸命題に準拠してはいない。

なぜなら「論理空間」なんて奇怪なものは想定されていないからだ。

論理空間ではあらゆる因果法則が通用しない。だから「私の意志」による未来予測は全く無力だし、端的に「自由意志」など不要である。

つまり論理空間の前では必然的に永遠の相のもとで見ざるを得なかったのだ。

何故って「現在のうち」にしか世界を肯定できないからだ。論理空間の前では過去の経験から未来を予測して、仮にそれが当たっていたとしても「僥倖」にすぎない。ならば帰納法を編んでしまう「自由意志」は慢心する要因でしかない。

そんな世界では永遠の相だけが世界を肯定する方法なのだ。

 

だがここで言われている「限界づけられた全体としての世界」は我々が帰納法によって知っている世界である。

因果が渦巻く世界。

人々が自分の意志で安心できる世界。

日常。

人はそんな世界で様々なものを発見して、時に何かを(素朴に)美しいと感じる。

その時、寄り道のように永遠の相のもとで世界を感じてみるのだ。

それは因果から切り離されているからこそ分かる「ただ世界がそこに在ること」を感じる事。

そうすれば、世界は「神秘」として表れ、我々は世界をより強く肯定することができる。

永遠の相は「世界との関わり方」ではない。

「‟世界”の見つめ方」なのだ。

 

 

ふとした時、我々の日常の中で「世界が変わらずに在る」ということを感じること。

素朴な美しさを感じた時、永遠の相のもとで神秘を感じること。

ーーーーーその時、世界の意味と意義はひとつになる。

神秘を感じることとは私達の日常が素晴らしき日々であると感じることなのだ。 

(そしてまた我々はごくあたりまえな日常へと戻ってゆく...)

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「あ!見つけたっっ」

由岐が叫ぶ。

「幸福の四つ葉討ち取ったりっっ」

「あ…本当だ……」

由岐は四つ葉のクローバーを手にする。

幸福の象徴。

一枚でおもちゃの缶詰が手に入る金の天使。

由岐は四つ葉のクローバーを笑いながら空に掲げた。
「あはは……見つかるとは思わなかった……。
結構簡単に見つかるんだねぇ……」
「……お前が見つけようとするからだ」
「だって見つけたくなるじゃん……」
「見つけたくなる……か」
「うん……幸福を呼ぶといわれる葉があったとしたら人はそれを探すだろ……」
「人ってそういうもんだよ……」

ーーー由岐、羽咲、皆守(向日葵の坂道)

幸福。

「コウフク」とは違う「幸福」。

生きているだけで幸福(コウフク)だなんて満足できない。

「幸福」……四つ葉のクローバーは求めなければ手に入らない。

人はいつだって幸福を求めるのだ。

 

それは「わすれもの」を探すように...

「幸福」はどこかにある、それを人は知っている。だから探すことができる。

今、見えないから「いらないもの」になるのではない。

探求とはいつだって希望的観測を含むものだ。

それは人が自然法則を見つけるように、人が季節の巡りの中で、その移ろいを予感するように。

その希望がないと人は歩くことすらできないのだ。

それは「幸福」も同じ。

「コウフク」な人は身に余る「幸福」を求めて、探し彷徨う。

 「でも……その葉が見つかってしまえば……」

「そうだね……その葉が見つかってしまったら……この遊びは終わりになるね……」

「なんでそうなるんだよ……」

「だってさ……遊びには終わりがあるから……遊びなんだよ……」

ーーー皆守、由岐(向日葵の坂道)

それは「遊び」。

人が「幸福」を求めるのは「遊び」。

比類ない幸福(コウフク)に包まれていながらも、全体からみれば素朴で利己的な幸福を求めることは遊びに過ぎない。

でも人は求める。

いずれ終止符を打たれるのを知っていながらも生きるように。

しかしその終止符が、我々をコウフクに気づかせるものでもある。

コウフクがあるから、幸福を探すことができるように、

幸福を探すことに終わりがあるから、コウフクという祝福を感じることができる。

我々が感じる幸福は儚いもの。

ならば「コウフク」という名のこの生を儚いものとして見ることができれば、その生は「幸福」と言えるのではないだろうか。

「ほら、帰ろうぜ」

「うん、帰ろうっ」

そう言って由岐が走り始める。

その後を羽咲が追いかける。

俺は少し呆然としながらその後を歩き始める。

三人は丘を下り始める。

空に一番近い……この丘から……、

三人であの坂道を下る。

ーーー由岐、羽咲、皆守(向日葵の坂道)

遊びの後は帰らねばならない。

でも帰って寝て、朝が来たら、また遊ぶことができる。

我々が「幸福」を追い求めることに終わりはない。

神が我々と共に歩むのなら、あるいはそれは「生」もまた……

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この幸福な時間は、明日にでも無くなってしまうかもしれない……。

けど、それはすべてに当てはまる事だ……。

目の前の由岐の姿がいつか消えてしまう……という不安は、すべての存在に当てはまってしまう。

だから俺は、もう考えない。

どこまでも続く坂道……。

遠く霞む坂道……。

まるで……そんな世界を俺たちは歩いている……。

その先を気にしても仕方がない。

俺たちはその道を楽しみながら歩いた。

ーーー皆守(向日葵の坂道)

私達はこの胸にある確かなものを信じて生きていく。

確かな一歩を重ねて坂道を下ってゆく。

これまでそうだったから、この一歩を疑うことはない。

けれど、私達の未来は全てが思い通りではないだろう。

追い求めた「幸福」に裏切られることもある。

でもこの日常の中で懐疑を抱いてはいけない。

その懐疑は確かな一歩をも止めてしまう。

だから僕達は信じる。

この確かな一歩を。

いつか「幸福」を掴めることを。

この「コウフク」で「幸福」な日々---素晴らしき日々が続くことを。

 

祝福された生/呪われた生

「死とはヘルが扱うもの・・ヘルが導くものでしかない
ヘルとは何か?
これこそ、存在の不安である!
生への不安、それこそがヘルの正体である」
「死を殊更避ける必要など無い!
死は受け入れるべきなのである!」
---卓司(It's my own Invention)

卓司は「死を恐れる必要はなく、死は受け入れるべきなのである」と言う。それは論考の死観と一致する。

だが、皆守は違った。

「自分が消滅するのは恐くないの?」

「消滅するのが恐くないわけないさ……消滅の恐怖、痛覚の恐怖……どちらにしても恐ろしいだろう……死は恐ろしいものだ……」

ーーー彩名、皆守(Jabberwocky)

死は恐い。

自分という存在が消えてなくなるのだから当たり前だ。

「そう、なら死にたくないの?」

「死にたくない? どうだろうな……」俺にはその質問の意味が良く分からない……」

「でも死は恐怖である……」

「ああ、そうだな……でもどうかな、‟されたくない” ‟なりたくない” ‟したくない”って、死以外だと必ず経験出来る事に限られる」

「‟されたくない” ……‟なりたくない”…… ‟したくない”……」

「ああそうだ。たとえば大半の人間が拷問とかされたくないよな……相当なマゾなら違うかもしれんが……。

他にも破産したくない……ホームレスにもなりたくない……。

でもそういう事は経験可能だから、‟されたくない” ‟なりたくない” ‟したくない”と言える……。

だが、死は経験しようがない。

死はそこかしらに転がっている。近所の墓地にでも行けば死んだ人間だらけだ……でも経験した人間は皆無だ。
死はまず経験不可能な事……それが大前提。
経験不可能な事に対して、まるで経験できる事と同列で語るのは、一種、倒錯の様に思える……」
「経験不可能は、経験可能なもののごとくには語れない……」
「ああ、そうだ……でも人は死を経験できるあらゆる事と同列で語る……何故だ?」
「何故?」
「さぁな、実際俺にはよくわからない……ただもしかしたら、倒錯だからこそ死を思うことに意味があるのかもしれない……」
「倒錯だからこそ死を思うことに意味がある……」

(中略)

「死を思う事は……倒錯した衝動だろう……」

「なら君は死ぬの恐くない?」

「いや恐いよ……当たり前だ……でもそれは誰でも感じる程の恐怖だ」

ーーー彩名、皆守(Jabberwocky)

誰も経験できもしない死を考えることは、一種の倒錯なのだ。

にもかかわらず人は死を考える。

存在の消滅だ。恐怖で足がすくんでしまってもおかしくはない。

「今この瞬間も人が死んでいる。
過去から……今まで……とてつもない数の人が死んでいる……。
特にこの国では、別に死後の世界の事なんて考えずに死ぬヤツ多数……。
死を来世への道ではなく、単なる消滅ととらえていながら、毎日の様に人が死ぬ。
考えてみれば不思議なものだ……‟死”はあらゆるものの中でもっとも恐ろしいものであり、自らに降り掛かる災厄の中でもっとも大きなものと考えられる……。
それでも毎日人は死ぬ……淡々と人は死んでいく。
もし‟死”がそれほどの恐怖だったら、死の恐ろしさから暴動なりが毎日起きてもおかしくないはずだ……。
でも、事実は違う。大半の人間が、死ぬ間際に死を恐れて暴れる事も泣き叫ぶ事も無く、死ぬ。
まぁ、死を宣告された時に後悔やら悲しみやらはあるだろうけど……でも死の直前そのものでは落ち着いたものだ……。
つまり……死は嘆く対象じゃない事は、誰でも知っている、当たり前な事だ……」
ーーー皆守(Jabberwocky)

だがそれでも人は死をそこまで大業に考えない。
それは自分の死を含めて。

人は自分の誕生と終わりを知らない。知ることはできない。
それは「開かれているもの」ではないのだ。
でも日々の中で、自分ではない新しい命が生まれ、自分の周りにいた人が死んでゆくことを経験する。
そんな中でいつからか「自分もそんな中の一人であること」を受け入れてゆく。
自分が生まれた時同じように祝福され、いずれ死んだ時同じように悼まれることを知ってゆく。
その中で自らの死は受け入れられるものとして扱われるのだ。
だから死は「当たり前な事」として表れる。

 

ウィトゲンシュタインのように「死と同時に世界が終わる」とも考えない。

人は時間性のなかを生きている。自分が存在する以前には「歴史」が存在するし、存在した以後にも「未来」が確かに続いていると信じている。疑いようもしない。

それは多くの人が踏襲したように、自分も……この肉体もその中の一人だと日常の中で知っていくからだ。

自分のように愛していた人が死んでも、自分は生きていく。

そしていつか終わる。

その後もちゃんと誰かが生きていく。

そんなことを当たり前のように人は受け入れていくのだ。

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それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって……。
だってさ、死んじゃうんだからさ。
どんな幸せな時間も終わる。
どんな楽しい時間も終わる。
どんなに人を愛しても・・どんなに世界を愛しても……。
それは終わる。
死という名の終止符を打たれて……。
だから、この世界に生まれ落ちることは呪いに似たものだと思ってた……。
だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから……。
それが原因なのかさ・・何度か同じような夢見てたんだよ……。

ーーー由岐(JabberwockyⅡ)

生は終わる。

「幸福に生きよ」と祝福した神は我々の生を比類ない幸福として扱う。

そして我々は唯一「生きる意志」によって祝福に応えることができる。

でも神は我々の生を祝福したのにも関わらず、逃れることを許さない「死という名の終止符」を打つ。

それは呪いのようなものだ。

何ら特別な意味を持つわけでもなく、自分もいつか終わるだろう。

それは確かな予感だ。神に祝福されようが、呪われようが人はそれを予感する。

何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか……。

何故、人は自分以外の死を悼むのか……。

そして、その悼みは……決して過ちではなく……。

正しき祈りなんだってさ……

ーーー由岐(JabberwockyⅡ)

ここでの「正しき」は「素晴らしき」と同じニュアンスを含む。つまり神の恩寵を表す。

それは人々が新しい生命に祝福し、死を悼むように、

神もまた我々を祝福し、死を悼んでいる。

自分の意思で人々が未来を切り開くことを許すその弱い神は、我々と共に歩き、喜び、悲しみ、そして祈るのだ。

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「神は我々と共に歩む……だから、死後、自分が歩いた道を見ると……必ず寄り添う足跡がもう一つ見つかる。

人生は寄り添う力で支えられてる……。

でもさ……一番つらい時、悲しい時に、足跡は一つになってるんだってさ……」

「一番つらい時に……そばにいないのかよ……でも、それが神様ってヤツだよな」

「違うよ……。

その時……神は、立ち止まって動けない人の足そのものになってくれるんだってさ……」

「自分の足そのもの?」

「そう……立ち止まっていると思えた道も……かならず先に進んでいる……」

ーーー由岐(JabberwockyⅡ)

未来を切り開く中で、人は生きる意志を失い、時に死を選ぼうとするときがある。

しかしそんな時でも、その神は言うだろう。

「幸福に生きよ」と。

その祝福があるからこそ、

人は「この生」という永遠の相を生きることができる。

存在以前、存在している今、存在以後、そんな大きな過去、現在、未来の時間性ではなく、この肉体、この生というただ一つの「存在している今」を必死に生きる事ができる。

それはごく当たり前で、今この「流転の相」という因果にまみれた日常を生きている誰もが行っていることなのだ。

人は生まれてから死ぬその瞬間まで、祝福の中にある。

それを感じ取る時、自分が「この生」という永遠の相に生きていることを理解するのだ。

自分が自分である限り、どんな時だって祝福に包まれている。

祝福は今もなおこの身に……。

 

(それは我々の遊びが儚いものであり、いずれ終わってしまうことと似ている。

コウフクはいつだって我々にある。

そして人はそのコウフクの中で、儚いものである幸福を掴み取ろうとする。

その幸福はいずれ終止符を打たれてしまうのに。

 

それは生がコウフクでありながら、死という呪いから逃れられないことと似ているのだ。

人が素朴に感じることができる幸福が儚いものでしかないのなら。

死という終止符があるからこそ、その生というコウフクを、幸福と感じることができるのかもしれない。

その時、私の生の意味と意義はひとつになる---

生とはコウフクであり、死を背景にした時それは幸福として映る。

私の生は儚い。

この世界の中で儚いのだろう。

私が生を終えても美しいものである世界は在る。

それは或る季節にだけ花を咲かせ、すぐに散ってしまう櫻のように...

花弁がなくともその木は春夏秋冬いつだってそこに在るのだから...)

 

魂の永遠の相

素晴らしき日々』の最終テーゼとして、人は限界づけられた全体として「この生」という永遠の相を生きていることが示された。

しかし追加シナリオでは、その先を生きようとする態度が示される。

それは「この生」という永遠の相に反しているのだろうか。

「この生」の因果について考えてみよう。

 

「我々は何処から来て、何者で、何処へ行くのか」。
″私″の生。
この原因は一体なんだろう。
親がSEXして卵子が受精して母の身体より生まれた……ぐらいしか自分には分からない。それだって自分で経験して理解したものでなく、日々の中でおのずとなんとなく理解する。

しかしそのように「おのずと理解した」存在はどこから来たのだろうか。

先ほどの問いの答えは「身体」に関する答えでしかない。
問題はこの「魂」についてだ。別に「心」とか「意識」とかなんでもよい。

私が「私」と呼ぶこの意識。
この「意識」はどこから来たのだろう。その発生源こそが原因と言える。
むしろ「我々は何処から来て、何者で、何処へ行くのか」というポール・ゴーギャンの問いの本質はここにあるのではないか。

本作品では「存在以前、存在以後」という客観的とも言える人類史レベルの「時間性」の仮定が皆守によって扱われている。

それは当然肉体的な意味ではなく、精神的な意味でだろう。

赤ん坊の産声を「呪い」と見るのはまさに前世的な場所から現世へと来た時に生じる想いだ。

それは以下に引用した場面でも同様である。

「持ち物を増やしてはならない。いつ何が起きるか分からない......。

レニングラード・フィルの常任指揮者のムラヴィンスキーはそういつも言ってた......

ソ連の粛正を知っていた彼は、いつ自分が国家から用無しになり逃亡しなければならないかもしれない事を知っていたから......。

でもさ、彼は心の持ち物まで増やしてはいけないとは言っていないよ......。

それどころか、熱心なギリシャ正教の信者である彼は、心の宝は、天国まで持って行けると考えたはず......。

だから......」

だからの言葉の次......、

心の宝は、天国まで持って行ける......だから......、

“今を宝に......”

となる......。

ーーー由岐、皆守(Jabberwocky)

作中では、 上記のように(肉体含めた)物質と心を判別した態度が至る所で伺える。

ここにおいて「魂(意識)」は「心の宝」という形で不死性が謳われている。

それに従えば、作中では必然的に「肉体」と「魂」で分けられており、「肉体無き魂」の存在が考えられなければならない。

つまり人が死んだ時、生きている人々と弱い神がその死人の魂を悼むように、「魂は彼らによって祝福されている」と考えるのが妥当ではないだろうか。

「私」は祝福のもとに生き続けている。

それは存在以前の世界からこの世界へと生まれ落ちた時、あるいはもっと前から、この魂は祝福のもとにあり続けている。そしてそれはこの肉体が朽ちた後も...

だがこの魂がどこから来て、「私」と呼ばれている自分が何者で(個体名としての名ではなく)、どこへ行くのかを我々は想像できないのだ。

 

こう言うこともできるだろう。

「生の意味」とは「生きるに値するもの」として生を認めることにあった。

「生きるに値するもの」という超越的な視点は、魂が肉体に宿り、一時的な器として肉体ありきな「この生」を認めることによって、人は神の作りし日々である「素晴らしき日々」を感じながら生きる事が許される。

この魂はどこから来たのかはわからない。どこへ行くのかもわからない。

けれど存在以前、存在以後、という時間性を信じることによって「生の意味」はただ一つのものとして認めることができる、と。

 

あるいは逆に「我々は何処から来て、何者で、何処へ行くのか」という問いは「魂」が時間性のうちにあるからこそ問える問題なのである。

その行先を我々は想像できない。

肉体無き魂はどこへ行くのだろうか。

そんなもの、

死んでみなくてはわからないだろう。

魂の所在は「この肉体」という「現在のうち」にあるのだから。

答えがないものに問いを投げかけることはできないのだから。

6.5 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。

謎は存在しない。

問いが立てうるのであれば、答えもまた与えられうる。

ーーーウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

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「私とその先を歩いてください。

あなたの死後、その先を今度はちゃんと私があなたを導くから……。

その時はさ。皆守の姿はあの頃に戻っているのかな?」

「あの頃?」

「うん、あの頃。私が生きてて、皆守や羽咲ちゃんがいたあの頃……」

「沢衣村か……」

「うん、あの頃の姿に戻っているのかなぁ」

「どうかな。今の姿じゃないのか?」

「そんな事はないよ……。

だってさ。皆守にとって私はお姉さんなんだから」

「そっか……」

俺が歳を取って、由岐がずっと若いままで……。

いつか、遠い先で、俺が死んだ時に……。

ずっと、長い時間待っていた人がいてくれる。

そんな幸福な人生があって良いのだろうか。

ーーー由岐、皆守(Knockin' on heaven's door)

それは倒錯。

死した後、何処へ行き、どう過ごすのか……

誰も見たこともない領域を語ることは紛れもない倒錯なのだ。

だがその倒錯は、我々が神に祝福されていることを感じる事。

肉体ありきのこの生と「私」が祝福されていることを感じることに他ならない。

コウフクを、幸福と感じること。

 

そしていつか誰も到達したことがない世界へとこの魂は踏み出そうとする。

肉体無き魂が天国の扉を叩く時、その先には何が待つのだろう。

それは「私」が抱く「未来としての現在の‟期待”」。

肉体の終わりを迎えてもなお、また歩き出そうとしているのだ。

 

「......私たちは朗らかに場所を次から次へと通り抜けるべきである。

どんな場所にも故郷のように執着してはならない。

世界精神は私たちを縛りせばめようとはしない。

世界精神は私たちを一段一段と高め、広げようとする。

私たちがある生活圏に住みついて、そこになじもうとすると、すぐに弛緩が脅かす。

出発と旅の心構えのある人のみが、麻痺させる慣れから身をもぎ離すことがでぎる。

あるいは死の時もなお、私たちを新しい場所へと若々しく送ることがあるかもしれない。

私たちへの生の呼びかけは決して終わるまい......

それならよし、心よ、別れを告げよ、そしてすこやかなれ!」

--本(Ⅰ Down the Rabbit-Hole)

 

魂はいつだって現在のうちにしかない。私は魂の因果を知らないのだから。

魂の行方を思うことは倒錯だろう。けれど、倒錯だからこそ人は絶望しない。

魂がいつか煉獄の炎に焼かれることがわかるのなら、人は死を受け入れようとはしないだろう。

死した人の御魂を悼む時、その御魂は祝福されている。

だからきっと「私」もいつだって皆の祝福のもとにあるのだ。

 

その生は祝福されていた。

だからこの生は永遠の相を歩くことができた。

そして「私」は今なお祝福されている。

だからこの魂は永遠の相を歩くことができる。

存在以後...天国と言う名の「今」を…

f:id:lamsakeerog:20181116183129p:plain

私達の人生の最後……私達のすべてが終わった時に……こう言ってやるんだ。

私達の生は幸福に包まれていた。だから、私達はこの先も歩いて行ける……ってね。

ーーー由岐(Knockin' on heaven's door)

 

 

【あとがき】

ということで考察は終了です。ここからはすば日々と本稿執筆の感想となります。

と言っても、うだうだと自分語りするだけですが……

 

本稿には『論理哲学論考』と一般的『素晴らしき日々』像によって囲い込まれた「日常の諦観」という僕自身の「病」を解消するという側面が存在しています。だから多分読者の目から見れば「こいつ因果の話しかしてねえな」というカンジに映ったのではないでしょうか。まぁ実際読み返してみて自分でもそう思います。

僕にとっては、『素晴らしき日々』はこの後に続く『サクラノ詩』を解釈するための作品として手に取ったため、初見時には自分が予想していた内容とは大幅に逸れていたわけです。いやだって名前とか日常ゲーっぽいじゃん!

本作品と関わることと相互比例して『論理哲学論考』への理解をより深めていく中で、今となっては余計なことを考えてしまったのです。具体的に言えば極端に(日常の中でまで)永遠の相を捉えました。そんなことしたら自分を信じてもいいのか疑心暗鬼にもなりますよね。

その点は僕が盲点だったことが大幅に起因していて、今回取り上げたように『素晴らしき日々』内にきちんと救済措置が置かれているのに、それに長らく気づかなかった。『論理哲学論考』=『素晴らしき日々』というバイアスが根っこにあったわけです。これに関しては抜け道があって、シナリオライター氏自身が『サクラノ詩』のアートワークスに「すば日々思想」という形で言及されていて、両者が差別化されていることを表していることにも長い間気づけなかった。

実際本作品の感想とか見てると、『論理哲学論考』を基調にした作品!  とか結構あって、それを無根拠に信じてきたのでしょう(←いやお前が極端に捉えただけの自業自得やぞ)

でも今見ても『論理哲学論考』には危うさに満ちた魅力がありますね。

最初読んだ時「永遠に生きる」みたいなこと書いてて、半年前の僕みたいな哲学ペーペーの妄想オタクにとって魅力的でしたし、今でもテーゼとして人を惹きつける力があるよなぁと感じます。

けれどやっぱり僕は、彼の思想は梯子として扱い、最後に投げ棄てねばならないと思うのです。実を言うと、彼は本当に論考の生き方を体現して晩年まで生きたのか、それとも今回『素晴らしき日々』で扱われたように彼は彼自身の思想を投げ棄てて我々と同じ因果を信じて生きたのか、どちらなのかはっきり理解してないんですよ。本稿では印象的に扱うために敢えて‟ああいう”表現をさせていただきました。

論考を経て哲学から足を洗い、彼が再び哲学に復帰した時、彼は論考の思想に類似した『哲学的考察』に着手する。この一連の流れを踏まえると彼は晩年まで、論考の思想を体現したようにも思えないこともない。不運にも考察の中でその辺を明言するウィトゲンシュタイン研究の哲学者に出会えなかった。実際史実的には曖昧なのかもしれない。

でもどちらにせよ、我々は本稿に書いた意味で『論理哲学論考』という梯子を投げ棄てねばならないでしょう。

そうして日常に帰り、ふとした時に「神秘」を感じること。

意味と意義を感じること。

それが大切なのではないでしょうか。

 

しかし本稿は結局「魂の永遠の相」という解釈に辿り着き、これを僕自身の答えとして確立することでとりあえずの形で『素晴らしき日々』を肯定することに成功したわけです(つまり本稿は文字通り″エゴの塊″ってことなんだなこれが)。まぁある意味「感想」という体を保っていますかね。

その点ではフルボイスHD版での追加シナリオである「Knockin' on heaven's door」の存在は僥倖で、シナリオライター氏はSNSで「書きすぎた」とおっしゃっていましたが、少なくとも僕にとっては天から伸びた蜘蛛の糸だったので感謝の言葉しかありません。

今読むと割と自分勝手な記事ですねこれ……ははは……。

まぁ僕の解釈の正否につきましてはここまで読んでいただいた聖人の方々に任せるとして、半年にも及んだ考察と本稿を書き終えたことでようやく僕は先に進めるみたいです。

先というと『サクラノ詩』の記事になるわけ...ではなく(←えっ)、

すば日々の考察中に発売された『ラズベリーキューブ』をプレイすることですね()

え?  い、いやぁ勿論『サクラノ詩』の記事の執筆もやりますよ。本稿の正否はともかくここまで書いたからにはケジメとして取り組まなきゃいけないでしょうし...。

しかし反面ここまで書いてしまったが故に『サクラノ詩』で言えることもほぼ無いと思うんですよ(*´-`)

「″幸福に生きよ″のその先、″幸福な生″を体現する″日常″反哲学的でごく自然な日常の物語とはー」というのが『サクラノ詩』のテーマとしてあるのですが、本稿のオリジナリティの大半は、この「幸福な生」についてなんですよね。つまるところ「ザラザラとした大地の尊さ」ということでしょうか。
問題はこの記事を通して、もう頭の中でサクラノ詩の解釈も形になっている勘のいい方も少なくはなさそうなんですよね。まあ今回扱わなかった「私的言語」とかの議論(クリプキとか)はありますが。

 

じゃあ僕が書くべきことってあるんですかね...っていう(笑)

実際僕の中でもサクラノ詩に対しては、本稿と比べてそこまで革新的な解釈はありません。つまり本稿を応用すれば、同じようなことが言えるわけです。

まぁいかにして、魅力を感じさせるように記事を書くのかが今後の僕の課題ということでしょうか。

執筆のために日々邁進するに限りますね(_ _)

 

さて。

長きに渡った『素晴らしき日々』感想-考察も終えたわけでして(ほんとに長ぇ...)、

ひとまず僕も、そして何よりここまで読んでいただいた方もお疲れ様でした。

84000字強にも及ぶ記事にお付き合い頂き感謝の言葉もありません。

有意義だったのか、無駄な時間だったのか...いかがでしたでしょうか。

勿論執筆した僕自身も本稿を『素晴らしき日々』の決定論的な「解答」として扱うつもりは毛頭ありません。

本稿に共感していただいた方は自分なりの意見として解釈し直して欲しいですし、そうでなかった方も本稿を批判的に扱い、自分の意見を構築していただければ幸いです。

兎にも角にも、今の僕の気持ちは「めっちゃ疲れた」の一言です(笑)

 

というわけで最後に参考ブログ・参考文献の紹介と、次回予告をして気持ちよく終わりにしましょう!

 

【参考ブログ】

素晴らしき日々』考察-この物語は、あらゆる人を救う物語

http://koyayoi.hatenablog.com/entry/2015/09/02/050606

恩師曰く「哲学関係のブログはお粗末なのであまり参考にしないように」とのことだったので、本件に関する他ブログへの情報精査はかなり慎重であったため、結局最後までほとんど参考にはしませんでしたが、当記事はかなり参考にさせて頂きました。

素晴らしき日々』ファンであれば、多分一度は読んだことのある名記事だと思います。

内容に関しては概ね同意しますし、本稿の前半部において踏襲させていただきました。

 

そして改めて謝罪を。

本作品の考察の参考にさせてもらった折、ブログ内コメント欄での不適切な発言の数々、本当に申し訳ありませんでした。

本稿の結論に至れたのは、古明堂さんの記事で主張の軌道を修正する機会を得られたおかげです。

本当にありがとうございました。

【参考文献・引用文献】

(論文やレポートではないので、著者と著書名のみ記載。問題があれば発行年や出版社、正式な引用元も明示します)

筆者のにわかが明らかになるコーナー。恥ずかしいので流してください。

多く文献を挙げてはいますが、全文読んでいるのはごく一部です。

基本的には重要箇所近辺や流し読みで目に付いた箇所だけを読んだものがほとんどです。要は間引きを回避するために使っている本もいくつかあるわけです。

本稿の中で特に影響を受けたのがどれなのかは、恥ずかしいので言いませんが、雄弁に語ったものなんかはそうなんじゃないでしょうか(他人事)

ウィトゲンシュタイン関係

論理哲学論考を読む』著者:野矢茂樹

『論考』から引用した命題は全てここから。

この本を過剰に薦める方が多いのですが、命題だけ読んでも絶対意味不明なので個人的にはこの本からはナシの立場です。

野矢茂樹さんの簡単な解説も収録されてはいますが、それでもこの本だけで完結するのはほぼ無理ですし、僕は気持ち程度にしか読みませんでした。

これは命題の確認としてサイドに置いておいて、下記の著書群のどれかから読むことをお勧めします。

 

ウィトゲンシュタイン全集1、2、5、8、9』訳者:奥雅博 黒田亘 林下隆英ほか

『草稿』を中心に『確実性の問題』などもここから引用。説明が入ってないのでこれも『論理哲学論考を読む』と同様にサイドに置いておいて、適宜確認する程度にしました。

ちなみに痛烈に『論理哲学論考』の思想を否定し、まさに本稿で語った帰納法について語っているのが『確実性の問題』。前期の彼とのギャップを感じるために一番読んで欲しいのは9巻なのだ。そこでは我々と同じ視点で歩いてくれるウィトゲンシュタインが描かれている。

 

現代思想冒険者たち07   ウィトゲンシュタイン  言語の限界』著者:飯田隆

ウィトゲンシュタインの人生をなぞらえながら、学術的なことも述べていきますが、どちらといえば史実確認寄りの著書。

僕としては最後に読むことをオススメします。というのも僕自身が彼の史実に感傷的になってしまって、『論考』を信仰するだけの人間になってしまった期間があるからです(自分の専門分野がそっち系なのが原因でしょうね)

ただそれとは別にウィトゲンシュタインのカッコよさとかストイックさが詰まっているので、単純に面白かった(小並感)。

歴史とか好きな人は特に最後に読むくらいが丁度いいと思いますね。

 

ウィトゲンシュタインはこう考えた』著者:鬼界彰夫

よく挙げられる著書ですが、個人的には鬼界さんの文体が合わなかった。

少し堅い文ですが、多くの人が名著と呼ぶだけあって「つまらない」というほどではなかったです。

 

ウィトゲンシュタイン入門』著者:永井均

ダントツに最初に読むことをオススメします。とにかく簡潔かつ分かりやすく早く読める!

ただし用語とかの説明を一度したきりそれ以後、他書では適宜されていた用語確認がなかった印象だったので、本を読み慣れている方や哲学をある程度嗜む方なんかはお気に召すかと。

 

形而上学ウィトゲンシュタイン』著者:細川亮一

これも文句なしにオススメします。

とにかく適宜...というか執拗に用語確認が行われるため、考察を纏める上では非常に助かりました(半年という短い期間で考察を終えれたのはマジでこの本のおかげ)

あまり取り上げられない『論考』の「倫理」の項目が仔細に論じられているので、これを読まないとウィトゲンシュタインが言った意味での「幸福に生きよ」はほぼ理解できない。

割と分厚い本ですが、考察をしたい方は全文読むことを全力で薦めます。

 

『語りえぬものを語る』著者:野矢茂樹

論理哲学論考を読む』を手掛けた野矢茂樹さんの名著。タイトルからしてもう面白い。

内容は『素晴らしき日々』というよりは『サクラノ詩』寄りです。これが意味するところは...理解できるな?w

まぁぶっちゃけ滅茶苦茶影響受けてます。特に「魂」の存在とかはクッソ感動しました。電子と魂の対比とかはモロここからです。はい、偉そうにしてすみませんでした。

他にも「真理の相対主義」なんかの言葉もここから使っている。本当は別の言葉に変えたかったがそれ以外に思いつかなかった(貧相な語彙力)。

ていうか恥ずかしいので読まないくださいお願いします剽窃ギリギリなのバレるからぁ!)

 

『<魂>についての態度』著者:永井均

終ノ空Ⅱの解釈のために読んではいましたが、結局本稿ではほとんど使わなかった。

理由は単純で″ああいう解釈″になったからですね。

ウィトゲンシュタイン以外の諸哲学

『意志と表象としての世界 』著者:アルトゥル・ショーペンハウアー

ウィトゲンシュタインが絶大な影響を受けたショーペンハウアーの著書。

全文読むべきではあったのですが、文章として『純粋理性批判』クラスの難解さを感じ断念。要点のみの確認に使いましたが、軽く流し読みしただけでもウィトゲンシュタインの面影を感じてしまうほど、彼が影響を受けたのがわかります。

 

神学大全』著者:トマス・アクィナス

「時間のうちに生きる」と「現在のうちに生きる」の対比の根源です。具体的には「流れる今」と「止まる今」という表現で表されている。

そもそもウィトゲンシュタインが、キリスト教に関心があり、そんな人間が論理学を手掛けるのですから当然『神学大全』からは逃れられません。

この本はつまり聖書の教義とアリストテレスの哲学(論理学含め)に矛盾がないことを示すもので、現代の研究観点から考えるとかなり無茶苦茶です。当時は両者の論争とかがあってトマスはその争いを調停したかったのではないでしょうか(←哲学史にわか)

 

『要約福音書』著者:レフ・トルストイ

生の意味に苦悶している病める魂であった時期のウィトゲンシュタインが読んだことで、自殺衝動から回復する転機になった福音書前期の彼が戦時中に愛読していたらしい。

「生の意味とは語るのではなく、悟ることにある」というウィトゲンシュタインの生の意味に対する解答が詰まっています。

 

『人間本性論 』 著者:デイヴィッド・ヒューム

哲学史上有名な帰納について説いたヒュームの著書。

割と心理学的な感覚で読めるので普通に面白かったです。

追加シナリオでこれが言及されていることで、帰納法について気づいた。言及されてなかったら、多分本稿は投稿されてない。

特に『サクラノ詩』を考察したい方にオススメしたい一冊ですね。

 

『告白』著者:アウレリウス・アウグスティヌス 

アウグスティヌス という名前くらいは知っている方も多いのではないか。

永遠の相に関係がある「過去としての現在は記憶で、現在としての現在は直観で、未来としての現在は期待」という言明がある。

ウィトゲンシュタインは『告白』を読んで、過去と未来は、記憶と期待でしかなく、実在性を伴わない不確定なものとして一蹴したのだ。

過去は記憶でしかない。記憶ということは像である。

未来は期待でしかない。期待ということは信仰である。

とでも当時の彼なら言うのだろうか。

栓の無い話である。

 

その他

『ファスト&スロー   あなたの意思はどのように決定するか  上下』著者:ダニエル・カーネマン

面白い(確信)。

いやぁ面白かったです。

心理学の本って初めて読みましたが、こんなに面白いものとは……。人類の叡智ってやつでしょうか。

日常を担当するシステム1、非日常(論理的思考)を担当するシステム2、という頭の中に住む2人の自分を挙げ、その差異などを錯覚などの実験を実際に踏まえながら軽快に論じてゆきます。

それはさておき、実はシナリオライター氏がまず読んで欲しいのがこの本らしいです。

僕はしばらくたった後に読みましたが、考察を忘れるくらい読みふけってしまいました(←また脱線)。

というかですよ、こういう「日常」にまつわる本をシナリオライター氏が優先的に挙げる時点で、本編で『論理哲学論考』からの脱却を試みているのはほぼ間違いないでしょう。

一般のすば日々像に怯える中で、自分の主張が異端であるにも関わらず、今回投稿に踏み切る後押しをしてくれた一冊です。

 

【終わりに】

改めてここまで読んで下さった方々は本当にお疲れ様でした。多分相当しんどかったのではないでしょうか。それに見合う内容であったのかは……ここまで読んで頂いたということであれば色々と信じたいところです(笑)

書いた本人としてはこの記事の執筆は、筆者の人生の中で5本の指に入るくらいには苦しくもあり、またそれと同じくらい楽しい試みでした。

やっぱり考察って楽しいですね。

本稿がいかなる評価を受けるのかは読んで頂いた皆様に託すとして、僕にとっては人生の中では今回の件が最も生産的な試みだったと思っています(もっと社会に貢献しろ)。

やっぱり良い評価がほしいけどなぁ。

長くなりましたのでもう一度だけ。

本当にお疲れ様でした。

 

次回の記事は『サクラノ詩』を予定しています。

本稿が投稿に至るまで半年かかったのに対し、どのくらいの期間が空くのかはわかりませんが、少なくとも来年2019年3月までは、また音沙汰が無くなるかもしれません。

 

質問やご意見、感想やこうしてほしいなどのご要望があればコメントもしくはTwitter→@lambsakeのDⅯまでどうぞ。

最近活動はしていませんが、DⅯの対応はきちんとやらせていただくので、てらいのないご意見をお待ちしておりますm(_ _)m

 

*1:野矢茂樹『語りえぬものを語る』参照

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