【プレイ感想】恋×シンアイ彼女 共通、星奏√・終章 感想ー考察
(本ブログを初めてご覧になった方はまずこちらをどうぞ)
ども。大学のレポートは書かずに2万字オーバーの感想記事書くことになったラム酒です。今期は楽単多めなのか、もしくはまた落単しまくることになるのやら...(´・ω・`)
今回、感想を書くことになった作品は『恋×シンアイ彼女』です。
正確には、共通・星奏√、終章₋Ⅼast Episode₋の感想になります。
その名前を聴いて思うところがある方も多いと思うので、今回はいつものような批評形式ではなく、考察や感想、解釈をメインにひとつずつ丁寧に述べていきます。
感想というよりかは、「こんなこと考えながらプレイしたよ」という報告のようなものです。
あまり過激な感想にはならなかった自信はあるので、時間がある方は適当に見ていただければ幸いです。
※本記事は多量のネタバレを含んでおります。
未プレイで購入予定のある方、およびオールクリアされていない方は本記事をご覧になることをおすすめできません。
以上の2点に該当する方々はブラウザバック推奨です。
【前語り】
前述しましたが改めまして、今回は恋×シンアイ彼女(以下「恋カケ」)の感想を述べていくわけですが、何点かの注意点といいますか、押さえておくポイントをまずは述べておく必要があります。
まず今回は題名通り、共通√及び、姫野 星奏√、終章₋Ⅼast Episode₋に絞って感想を執筆させていただきます。
彩音、ゆい、凛香√の感想は今回は述べずに、各√の要点のみを抽出して、適宜引用するのみになります。ご承知ください。
良くも悪くも「恋カケ」といえば、「姫野 星奏というキャラクターに限る」ということは言うまでもない周知の事実ではあります。彼女の冷酷無比ともとれる言動や行動の数々は間違いなくエロゲというカテゴリーのヒロインに適していないこともまた事実ですし、それについては頷かざるを得ないでしょう。
また「恋カケ」は、いかにも甘酸っぱい純愛ラブストーリーを想起させるキャッチコピーやコンセプト。あの「サクラノ詩」とほぼ同時期に発売されていたこともあり、相互作用的な効果も多少はあってか、発売前からかなり期待されてもいました。
しかしながら先ほどのとおり、姫野 星奏というキャラクターとそれに準ずるシナリオはその期待を大きく裏切るものであり、奈落のどん底へ突き落された方も少なくないと存じます。
故にこのゲームへ、否定的な並々ならぬ思いを抱いている方も多いです。
(…という上述した方々への理解を先に示しておきます)
それにもかかわらず何故今頃になってそんな「恋カケ」の感想なのか、というところに行きつくわけですが、私は初めから賛否両論のある作品だということを認識したうえで購入し、プレイしたからです。
詳細に論じれば、先入観の相違というスタート地点がまるで異なっているゆえに、私と上記の方々の作品に対する理解や解釈、印象の在り方が同一性を持っていないのは当然である、ということです。
それを理解した上でこの作品に着眼し感想を述べるに至ったのは、ひとえに「文学」としての面白さがそれなりにあるのでは、と感じたからに相違ありません。
「文学」とか何言ってんだと思った方はブラウザバック推奨です。
(…とまぁ、長々と堅苦しい表現で述べてきたのは、SNSで恋カケの感想を簡単に述べた際にノイローゼじみた恋カケ否定派のとある方に一方的に論理の伴わない価値観を押し付けられ、「だったらまずは私の思ったことを全部書いてやろうじゃないか」、と考えたという裏事情があるだけですのであまり固く考えないで頂ければ幸いです苦笑)
最後に、本記事を読む前に押さえておいて欲しいポイントというか、キーセンテンスとして、「創作家」という視点を用意したうえで感想を綴っていくことを示しておきます。
主人公の洸太郎と星奏は、それぞれ小説家と作曲家であり、職業人ならではの人生観などの観念をもっているからですね。
もうひとつ、作中では彼らを「似ている」と評したり、洸太郎と星奏を対比したりする場面もあり、小説家、作曲家ではなく共通の何かを見出す必要がどうしてもあるからです。ゆえに「創作家」です。
想像やインスピレーションという無からモノを生み出すという創作家であるという点で2人は共通していますね。
私情を交えたこともあって長くなりましたが、前語りはこの辺で終わります。
ここからは物語に沿って私なりの読み方、解釈を適当に述べていきます。
※あくまで個人の価値観レベルの解釈なので「正しさ」は全くないことを前もってお伝えしておきます。思ったこと、考えたことを乱雑に書き殴っただけです。
【共通√】
『國見洸太郎は文学少年である』
(主人公の洸太郎は、気ままに小説を書きながら日々を過ごす学生です。
彼は小学生時代に星奏へ恋慕を込めた手紙を送るのですが、その返事をもらえないまま彼女は洸太郎の前から転校という形で姿を消してしまいます。
本気で書いたにも関わらず返事をもらえなかったことで、洸太郎は星奏への想いを一方的な身勝手なモノだったと捉え、自分の書き連ねた彼女への激情が滑稽なモノであったと思い込みます。
以来、彼はラブストーリーを書けなくなる。
洸太郎曰く、「滑稽な勘違い野郎が、恋愛を語るのか」と自分自身にささやかれるかのように感じるみたいです。
そんな彼の前に星奏が再び姿を現し、自分の中で停滞していた何かが動き出す、そんな予感を感じる洸太郎。
何故手紙の返事をくれなかったのかと問いただしたい洸太郎ですが、真実を知る恐怖や恋に関する彼自身のトラウマや積年のもどかしさが邪魔して聞き出せずにいます。
うやむやになりながらも、また星奏との日々を過ごすことになり…)
そんな彼の恋愛観を埋めていきながら、過去のトラウマを克服してゆくのが終章までの本作品の物語のおおまかな流れになります。
また、彼は文学人特有、もしくは小説特有の比喩や暗喩といった「例え言葉」を乱用する傾向にあります。
例,
この場面は適当に選んだので弱い比喩技法ですが、要するに「〇〇のようだ。」という表現です。※年代ものの本の臭いが漂っている、だから古本屋のようだ。
比喩といえば、有名どころだと夏目漱石の「こころ」を想起させますね。
「鉛のような飯」などの表現はあまりにも有名。思わず感嘆してしまうような「文学の美しさ」を形作る代表的な技法のひとつが比喩なわけです。
あまり突っ込むと脱線しますし、その方面に聡い方に怒られそうなのでこの辺にしておきますが、つまるところそういう表現が好きだったり、面白いと感じる方は本作品のシナリオの本題を気に入るかを問わず、洸太郎の物事への観点とその表現だけである程度は本作品を楽しめたのではないでしょうか。
逆に言えば、本作品を難解にしてしまっている大きな要因のひとつであるわけですが…
今回は触れませんが彩音√での洸太郎の言い回しはなかなかに綺麗で読み応えがあります。頭痛が痛くなるくらいには()
結局何が言いたいのかというと洸太郎の文学人ならではの言い回しを察する努力をする必要があるということです。
『星の音』
(姫野 星奏は何故洸太郎の住む町にまた戻ってきたのか。
星の音を聞くため。
そう答える彼女。
一体星の音とはなんなのか。)
星奏を知ろうとし、語る上では避けては通れない「星の音」。
早いかもしれませんが結論から言えば、星の音とは「思い出」なのかなと思います。
ただ思い出といってもどうやら彼女にとってはそう簡単なものではないようで…
厳密に言えば、星の音とは小学生時代、洸太郎と過ごしたあの時間と世界そのものを指していると私は解釈します。
何故私が単なる思い出ではないと思ったのか、「思い出」について洸太郎が作中でこんな表現をしています。
彼女の求める思い出はそんなフィルターを通して見るわけにはいかないようです。2つ前の画像の星奏は「もっと別のものを見つけてしまうかもしれない」と述べており、まるで新しいものを見つけたくないようにも思えます。これは彼女がフィルターを通さない思い出。つまり先ほど述べた小学生時代、洸太郎と過ごしたあの時間と世界そのものを欲していることを指しています。
時の流れとともに世界は移ろい、何もかもは変化し続けます。
(※世界の全ての事柄の姿や本質は、時の流れとともに常に流動的に変化し、一瞬たりとも同一性をもつものは存在しないという「諸行無常」の考え)
しかし、あの場所、あの時間の2つを求める星奏にとって、それはあまりにも残酷でどうしようもない絶望的な事実です。
(小学生時代、星奏と夜の海へ駆り出そうとした洸太郎。
子供ながらにして、親の目をどう欺き、どうやって家を抜け出すかなどの手順にああだこうだと全力だった美しい思い出を喚起した後の洸太郎の場面です。
手の届かない輝き。
彼女の追いかける星の音とはまさにそういったものです。
手が届かないから聴こうとしているのかもしれません。)
彼女が望むもの(過去)は空のむこう、星の光のようなもので決して人の手が届くようなではありません。だからこそそれを獲得し、形にすることができればそれは神秘ともいえる美しさを放ちます。音楽や小説といった創作物にはそういった美しさを表現できる可能性を秘めているとも言えます。神秘的な風景を見た時に「この世の物とは思えない美しさだ」と感じるように。
過去そのものとの邂逅という無謀な試みでも、どこかにその面影を求めて彼女は洸太郎の住む町に戻ってきます。
しかし、そこには皮肉にも彼女が残した傷、痕跡を持った洸太郎がいた。星奏に返事をもらえず彼女が転校していったときから彼はずっと停滞していました。
彼女にとって洸太郎は星の音を辿るうえで救いともいえる存在なわけです。
ここでの問題は洸太郎の尊厳が全く蔑ろにされてしまっていることなのでしょう。洸太郎を傷つけただけでなく、その傷の糸を辿って、彼を利用するわけですから。
そういった面が恋カケが持つ闇といいますか、否定される由縁です。もうこの時点でエロゲとしては失格もいいところです。この作品を肯定的に見ている方もこの点はなんだかんだ言っても多分一致していると思います 。
『姫野星奏は創作家である』
(小学生時代の洸太郎は教室の真ん中で一人で本を読んでいるような子でした。
周りの子供たちの会話から意識をそらそうと、読書に没頭しているふりをしているいわば「ぼっち」です。
学校で書いた洸太郎の小説が大きな賞、文部大臣賞まで取って、本として発売されたこともあってか、心の中で「自分は周りの同級生と違うものが見えている」という優越感を抱いており、周りの同級生たちもそんな彼の考えを察してか近づく子はいません。
そんな洸太郎の前に姫野星奏は転校してきます。
彼女は洸太郎とは違い、極端に無口ではあるものの人の目なんて気にせず、気ままにマイペースな少女。休み時間にはひとりで持ってきたオーディオプレイヤーで音楽を聴いています。
ある日、いつもの授業が特別に別の教室に移動して行うことになっていたが、彼女は学校になれていないからか気づかず、いつものように席で音楽を聴いています。
どこか周りとは違う雰囲気の星奏を気にしていた洸太郎は、彼女に声をかけますがよほど大音量で聴いていたのか気付く様子もありません。
洸太郎はついに気恥ずかしながらも星奏の手を取り、一緒に教室へ移動することで彼女の世界に踏み込みます。
それからというもの星奏は洸太郎に話しかけてくるようになり…)
はたからみれば洸太郎と星奏は似た者同士で、他人を寄せ付けない自分だけの空間を持っている人間です。
でもそれはあくまで周りから見た時の話であって洸太郎は自分以外の人間の目を気にしていて、その中で自分を演じています。
しかし、星奏はどうかというと、あくまで洸太郎を通した客観的人物像にすぎませんが、彼女は人の目を微塵も気にしておらず音楽に没頭しているようです。
洸太郎は小学校高学年という時期の多感さを匂わせてはいるものの、星奏は本格的に「周りと見えているものが違った」のでしょう。
どうやら神童と謳われていた洸太郎よりも、星奏は生粋の創作家であったようです。
このへんは、作中で度々登場する「姫野星奏にはかなわない」というフレーズからも察せるところがあります。
※ちなみに彼女の聴いていた曲は、彼女自身が作曲したもの。自分で作った曲に浸っているあたり、彼女は自分の世界に住んでいたのでしょう。
彼に手を引っ張られたことで、彼女の世界に國見洸太郎がやってくるわけです。
アパテイア(無感動)な表現をするなら、同じ創作家という点でシンパシーを感じたのかもしれませんね。
『ストイック』
(小学生ながら映画化や書籍化までするほどの小説を書いた洸太郎は、当時気にかけてくれた(目を付けた)編集部のツテを使って、いずれ小説家になろうと考えている。
しかしちょっとしたラブシーンも 書けない洸太郎。
気ままに小説を書いているだけの洸太郎。
そんな彼の自虐ともいえる自分とは乖離した小説家に対するイメージが語られます。)
彼の小説家に対する印象はまさに「ストイック」と言い換えてもいいでしょう。
正確なストイックの意味は
- 禁欲的な態度、自らを厳格に律する姿勢、怠惰や享楽へ逸脱することなく目標へと邁進する求道的な在り方~語源の「ストア派」Wikipedia、「ストイック」日本語表現辞典 weblio辞書より適宜抜粋して引用~
要するに哲学的な学派の思想を指す形容詞です。
と述べたもののそんな小難しい考え方をする必要はありませんw(なんで述べた)
概念上として頭の片隅に置いて頂いてもらえれば、後々の本記事を解釈しやすいです。
私たちが日常的に使う「ストイック」は「がむしゃらなこと」や「仕事や勉学、スポーツなどに対してひたむきに黙々と作業すること」というような意味合いで、本作品でもそのような俗語的な意味で何度か使われています。(主に星奏に対して)
洸太郎のいう小説家像は言い換えれば「小説家として生活レベルでストイックであり続けられる人」です。いわば職業人。
納期が迫っていたりする作家は「缶詰する」なんて言われますよね。自分から缶詰する人もいれば、編集さんに無理やり缶詰させられる人もいるらしいですがw
ですがそういうのって裏を返せば、それを許容できる人間にしかできないことなんですよね。普段自分が生活している空間とはまったく異なった空間で、普段よりも色々と不自由な生活を自ら強いる(強いられる)わけですから。もちろん気分転換ができるという考え方もできますが、それは論理に対抗するための肯定的に捉えたあやふやな考え方にすぎません。
「身を削るような努力」と「自己破壊のような生活」を「缶詰すること」と同義と言い切るのは問題かもしれませんが、要するにそういう「人間として」ではなく「創作家として」の生活または生活リズムや価値感がこの世には存在するってことです。
今の自分の小説家としての在り方に疑問を抱く洸太郎はまだいいとしましょう。
果たして姫野星奏は人間としての倫理を語る「人道」という枠組みに当てはめて彼女の人物像を捉えてよいのだろうか?
洸太郎に「音楽に全力だった」と評される彼女は、きっと創作家だったのでしょう。
『全力』
(ラブシーンを書けない洸太郎は、彩音にある質問をします。
「誰かに告白したことある?」
「ある、よ」
「それでどうなったの?」
「何も無かったよ」
「後悔してる?その、告白したこと…」
少し考えて彩音は
「全然」
と笑います。その笑顔を見たことを機に洸太郎は「あんな風に笑えるなら、滑稽でも、届かなくたっていいじゃないか」とトラウマを克服します。
その後ラブシーンを書ききった洸太郎は星奏の前で、
「君に届くものを書くよ。君を感動させるもの」
と宣言するのでした。)
多く語ることはありませんが、終章における「全力」の解釈に必要な場面です。
私としては洸太郎がラブシーンを書けるようになったことを機に、彼の中で少しずつ停滞していた何かが動き始めたのかな。なんて10割憶測でしかない解釈をしています。
ラブシーンを書いている間は苦しかったけど、それでも書ききったあとには「全力だった」という清々しさが湧く。
この清々しさが終章における思い出の喚起なのでしょう。
洸太郎は星奏に届くものを書くことができるのでしょうか。
【姫野 星奏√】
『置き去りにしたもの』
(洸太郎に「好きな人はいるのか、もし誰かに告白されたらどうする?」と問われた星奏。(※告白シーンではない。ただの世間話)
星奏は「多分断る。そういうのは今はいい」と答えます。
洸太郎は「でもずっと、人を好きになるとか、そういうことを避けるわけにはいかない」と返しますが、
「もし人を好きになるとしても、先にやらないといけないことがある。
気持ちを、取りに帰らないといけない。」
と一蹴されます。)
作中で数少ない星奏の心理描写。
「置き去り」というあたり「すごく遠いところ」とはやっぱり「過去」のことなのでしょう。※あるいは「星 」
彼女が置き去りにしなければならなかったものとは一体何なのか。
『手紙』
(星奏はきちんと手紙を読んでいました。
洸太郎は「もしかしたらあの手紙はどこかで無くしていたりして読まれてすらいなかったのでは?気持ちが届かなかったのではなく、読まれてなかったのなら仕方ない」とどこか希望的に感じていました。
けど星奏は読んでいた。
洸太郎は意を決して「何故返事をくれなかったのか」と問いただします。
星奏はただ
「ごめん。それを言ったら、私は、きっとここにはいられないから」
そう返すだけでした。)
この時点ではほぼ解釈不可能です。伏線としか言えません。
その辺の詳しい解釈は『グロリアスデイズ』で。
『自意識を超えて伝えるもの』
(小学生時代、洸太郎は2人の間の雰囲気で星奏と両想いだと確信し、手紙を渡しました。
それは告白でもなんでもなく2人の間の意思確認ようなもので、洸太郎は当然星奏に受け入れられるものだと考えていました。そのくらいの気概じゃないと手紙なんてだせるほどの勇気もなかったのです。
しかし結果として星奏は返事を出さず、今なおあの時の答えを示してくれません。
全ては自分の思い込みからきた独り相撲だった、滑稽だったと自虐していた洸太郎でしたが、結局のところそれは自分の問題で、自己満足にすぎない手紙だった。
本当に星奏を大切に想っているのであれば、言葉にして言うべきだった。
自意識という恐怖を超えてまで伝えるべきものがなかった。
そんな問答の翌日。
星奏が突然転校することになったと担任に聞かされる洸太郎。
何も聞かされていない洸太郎はあわてて町中を走り回り、駅前で空港行きのバスに乗りこむ星奏を発見します。
何も言わずに去る彼女に自分への好意などない。
それでも振られたわけではない。答えをもらえなかっただけ。
昔のように、また星奏に踏み込む洸太郎。
去っていくバスに向かって全力で走りながら「好きだあああああああああああ」と言葉にするのでした。
そんな彼の姿を見た星奏はバスを降り、疲れ果て倒れた洸太郎の前にまた立ちます。
どうかしたの?と問う星奏に
「好きだって…姫野さんが好きだって…今も昔も…」
もう一度、彼女に届くように言葉にするのでした。)
一番好きなシーンです。
いいですよねこのシーン。
雰囲気ぶち壊しですが考察のお時間です()
手紙の返事を返さなかった理由を話していないにも関わらず、なぜ星奏は洸太郎の前から姿を消したのでしょうか。
それは単純に星奏の必要とする洸太郎が変わってしまったからでしょう。
とてつもなく言い方は悪いですが、作曲家として、星の音(過去、思い出)を聴くためにこの町に帰ってきた星奏にとって、小学生時代から停滞していた洸太郎は数少ない星の音への手掛かりでした。
自分の目の前で過去を受け止め前に進んだ彼を見て、とうとうこの町にいる理由が見いだせなくなったのかもしれません。
逆に、そんな彼女が洸太郎の告白を受けて何故この町に残ることにしたのか。
洸太郎と恋仲になりたいから?
そういう面もあったかもしれませんし、そうでないようにも見えるんですよねこれが。
再三申しますが、星奏は作曲家として星の音を聴きにこの町に帰ってきました。
私としては洸太郎の告白を受けたからというだけで残った、というのは少々理由としては弱い気がします。スランプ状態だから帰ってきたのですから。
後の話になりますが、彼女は愛と音楽からどちらかを選ぶ際に「音楽」を選ぶような人間ですからね。なのでこの場面で洸太郎の告白だけを理由に残るというのはあまり現実味を帯びない考え方です。
※間違いなく恋心も理由のひとつです(ただし付随的)
私は洸太郎の告白の最後、「今も昔も」で残ることを決めたのかなと思っています。
洸太郎は昔と変わらない気持ちのままでいてくれたから。そんな希望的観測を理由に残ったのかもしれません。
勝手な解釈ですが、「今も昔も」が倒置法なのも気になりますね。
冷めた考え方なのはわかりますが、星奏の事情や職業人である彼女に感情移入するとそんな風に私は思いました。
その裏付けをひとつ述べると、彼女は空港行きバスに乗るために駅前に行く前に海に行っています。小学生時代の星奏は洸太郎と夜の海に行った際に1人で星の音を聴いていたとしたら…?(そのような描写は確かにある)
※洸太郎は途中で徘徊していたお巡りさんに見つかった時に囮になって離脱した。
というかそうでなければ、海から遠いはずの駅前に行く前に、わざわざ近くに足であるタクシーを捕まえた上で海に行くとは考えられません。すがるような気持ちで過去に星の音を聴けたあの海に行っていたのではないでしょうか。
根拠の伴わない憶測の域を出ませんけどね。
『告白の返事』
(洸太郎の全力の告白に対して、彼女は手紙で答える。)
大事なターニングポイントです。
小学生時代の洸太郎は「自意識という恐怖を超えて伝えるべきものがなかった」から言葉にして言えなかった。
それを星奏に当てはめて考えると…うわぁ…ってなりますよね。
でも私はここは割と彼女の本心というか、「人間として」の答えだと思っています。
それは終章で、彼女の洸太郎に宛てた決別の誓いの手紙と対比できるからです。
洸太郎にとっての手紙と、星奏にとっての手紙は意味が全く異なります。
後々述べますが、作中における「星奏の手紙」に関してはどうしても肯定的に受け取らなければならない理由があります。「作曲家ではない、人間としての姫野星奏」を表すのが彼女の書く手紙なのです。そうでなければ終章での洸太郎の言い回しに適応できません。彼女の「人間としての触れ合い」を表すのが「星奏の手紙」なのです。
詳しくは終章の『誓い』、『想い』で。
『姫野星奏は國見洸太郎を愛している』
※星奏視点です。
作中で数少ない星奏の回想シーン。
告白の返事の手紙から、この星奏視点の回想に突然移るところからも、彼女の手紙の重要性が見えてきます。星奏の手紙は、本作品において彼女の内面、心理を表すための架け橋的な役割を果たしていることの証左です。
彼女の人間性と創作家としての想いが非常に明瞭に表されているので、恋カケを理解しようとするのであれば、絶対に読み飛ばしてはいけない場面です。
回想シーンですから、言うまでもなくそのキャラの本心です。
ここまで、星奏に対してかなり辛辣と呼べるほどの解釈をしてきましたが、やっぱり星奏は洸太郎が好きなのです。
ただ洸太郎の優先順位が「とあること」をきっかけに、音楽より低くならざるを得なかっただけ。その「とあること」が「人間としての星奏」をどこかへ追いやってしまったのです。それも終章で語られます。
さて、この回想シーンでは星奏の人間性を表すのと同時に、音楽に対する彼女の「例え」が含まれています。
彼女は自分の世界を持っています。『姫野星奏は創作家である』でも述べましたが、彼女には本格的に周りと見えているものが違っているのでしょう。
「音楽に包まれていると、ほっとする。どんどん自分の内側にもぐっていって。そこでは、気持ちの良い、窒息感が、私を迎えてくれる。」
窒息感。そこには彼女の音楽への苦しさを内包しているような気もします。
続きは『森と宇宙』で。
『誰もいない町』
※中略
4章冒頭。星奏がこの町へ帰ってきた時の回想。
私が「星の音」を小学生時代、洸太郎と過ごしたあの時間と世界そのものと解釈したのは言うまでもなくこの回想からです。正確には「その世界にしか星の音は聴こえない」ということですが。
ここまで言えばなんとなく解釈できると思いますが、町の住人たちはみんな、時の流れとともに変わってしまっていて、星奏の帰ってきた思い出の町…過去の町には誰もいません。
停滞していた洸太郎を除いて。
『桜の丘』
(季節は夏を直前に控えた時期。不思議なことにそんな時でもこの丘では桜が咲いている。)
上記の通り、この桜の丘は星奏の言う誰もいない町の一部なのでしょう。
昔、星奏がこの町を去ったあの時から、もしくは彼女が小学生のころ、初めてここにたどり着いたその時から変わらない場所です。
終章では、この桜の丘について精華が代弁してくれます。
続きは『変わらない場所』で
『森と宇宙』
(桜の丘からの帰りに雨に降られた2人は、とりあえず洸太郎の家に行くことに。そこで洸太郎は星奏を2階にある自室に誘います。小説を書くための作業空間でもある自室を洸太郎は「森」に例える。
自分の世界を見せてくれた洸太郎に、「今度私の部屋を見せてあげる」と星奏は約束してくれます。
しばらくして、星奏は作曲をするための作業空間である自室に洸太郎を誘います。)
(それは室内プラネタリウムでした。星奏はこの「宇宙」に包まれながら作曲しているようです。)
私の文才がないばかりに画像が多くなってしまい申し訳ありません(T_T)
順を追って考察していきます。
彼らはお互いの作業空間と、その認識を共有するわけですね。
繊細でクリエイティブな作業を行う空間というだけあって、創作家にとって簡単には他人は踏み入れない領域のはずです。
星奏にいたっては誰も入れたことがなかったみたいですね。
私としては、彼らの作業空間に対する表現やそれらの対比がとても面白いと思いました。
洸太郎の「森」と、星奏の「宇宙(星空)」
それぞれが独特の世界観を持っており、どこか似た雰囲気を持つ表現ですね。
彩音√で2人はこう評されています。
洸太郎のいない所で星奏と語り合う彩音。
彩音は2人を「似ている」と評します。
先ほども述べた通り、2人は独特の世界観を持っていますし確かに似ているように見えます。
ですがそれはあくまで客観的な類似だと思います。
どういうことかというと2人は創作家としての雰囲気やあり方が似ているということです。自己と自我が分けられて考えられるように、「人から見た自分」と、「今何かを思い、何かを感じ、生きている自分」は確かに同じ人間ですが、その本質はどうなのか。
表現が難しいです…なんて言えばいいのやら。
つまり彩音には、2人の創作家というはたから見た共通点しか見えていないということです。小学生時代、周りからそんな風に見られていたように。
創作家というのは、それぞれがストイックかつ多様な繊細さを持っていて、同じ創作家だからといって、全員が似たような価値観を持ち合わせているはずはないのです。
もしそうなら、この世にある創作物はどこか似たような陳腐なものになるはず。
王道という直球だけで勝負はできない世界ですから、創作家は常に変化球を投げ続ける必要があります。
例えばエロゲでも、黄金比のツンデレ、毎朝起こしに来てくれる幼馴染、甘やかしてくれる先輩のようなヒロインは王道ではあるものの、そればっかりでは面白くありませんし、ひどい場合だと量産型なんて揶揄されるでしょう。
だから必ず変化球を入れる必要がある。
王道を元にして応用するのもよし、全く違う属性を開拓するのもまたいいでしょう。
そんな変化があるからこそ、その享受者である私たちは飽きないのです。
その変化の多様さが、彼らの「ストイックさ」の末に導きだした創作家の個性なのかなとも思います。
話を戻すと、洸太郎と星奏は本質的には似てないのかなと私は思いました。似てるはずがない。
洸太郎の例えた「森」と星奏の例えた「宇宙」は、どちらも「空間」という単位で共通しています。
しかし、前に星奏は音楽に対して「窒息感」という表現をしましたね。
この窒息感という例えは、間違いなく先ほど彼女の例えた「宇宙」と対応しています。
「森」と「窒息感」の2つは流石にリンクしません。むしろ対岸にある関係にも思える。
「満たされている」と表現すればいいものを「窒息」と表現するあたり、音楽に対する彼女の苦しみ、はたまた逆に必要不可欠感を醸し出しているように見えます。
なんだかんだ似ていると言われた2人ですが、創作家としての同一性はやはり持っていないように思えますね。
もうひとつ。
洸太郎が「森」の例えをした際に、星奏はその例えを感じようとしています。
ですが、星奏には森の揺らめきは聞こえなかったようです。
対して洸太郎は、星奏の見せた「宇宙」を自分なりに語りはじめます。
星奏の世界に踏み込んだ末に、その世界に「到った」のかはわかりません。
それでも洸太郎は星奏と違い、相手の世界を感じ、語ることができた。
星奏の見る世界は初めから自分しかいなかった。そこに洸太郎がやってくるわけですが、星奏自身から洸太郎の世界に踏み込むことはしていないのです。
ここが2人の決定的な差異なのでしょう。創作家としてではなく、人間として。
「だから何?」と言われると泣いちゃいますけどね。
確かなのは、この星奏√において、洸太郎が最も星奏に肉薄した場面であることです。
他人の気持ちは絶対にわからない。
洸太郎の「森」を彼女が理解できず、洸太郎の世界に到れなかったなら、星奏を全力で追いかけることで、自分からまた彼女の世界に「一瞬でも到ろう」とするのが終章です。
『聞こえた』
(小学生時代、彼女がいつも使っていたオーディオプレイヤーは当時のクラスメイトに取られていました。それは好きな子にちょっかいをかけるという悪意のない子供らしいアプローチです。
そのことを知った洸太郎はオーディオプレイヤーを取り返すために行動します。
柔道勝負やら、なんやかんやあって洸太郎はオーディオプレイヤーを取り返すことに成功し、星奏に返します。
その場で中に入っていた音楽を聴く2人。
洸太郎は「そういえば星の音は聞こえたかい?」と尋ねると
「うん…多分、さっき聞こえた」と答えるのでした。)
オーディオプレイヤーに入っていた曲を洸太郎と聞くことで、星の音を聞いた星奏。
なぜ聞こえたのかというと単純な話。
プレイヤーの中には小学生時代に星奏自身が手掛けた曲が入っており、その曲を当時の洸太郎も聞かせてもらっていました。
小学生時代のままのプレイヤーの中の曲を、洸太郎とともに聞いたことで、当時抱いていた美しいものを喚起させ、感覚を取り戻せたのでしょう。
ここまで読んでいただいた方なら説明は不要です。
『ごめんなさい』
(サマーフェスティバルという学園の行事に、ゲストとして呼ばれた人気バンド「グロリアスデイズ」。しかも新曲を披露するという。
そのメンバーのひとりである"よっこ"こと吉村に何故か話しかけられる星奏。
メンバーのひとりが食中毒のため、"せっちゃん"こと星奏が代わりに歌ってほしいと言い、洸太郎たちは困惑する。
周りは何がなんやらわからないまま、何処かへ駆けていく星奏。
そしてグロリアスデイズの一員として、彼女が手掛けたデビュー曲「Glorious Days」を代役のボーカルとして星奏は歌います。
返事のないラブレター、この町へ帰ってきた理由、星の音。
色々なことが洸太郎の中でつながってゆく。
「この町を出ていくんだよな」
星奏はただ「ごめん」と答えるだけです。
洸太郎の予感通り星奏は理由を告げずに、この町、洸太郎の前から去ります。
メールで「ごめんなさい」という謝罪を残して。)
小学生の星奏は音楽の正式なコンペに応募し、そこで才を見込まれた彼女は北海道で噂のグロリアスデイズの作曲として抜擢されていたから、転校していったわけです。
その後しばらくしてスランプに陥った彼女はこの町へ星の音を聞きに帰ってきました。
星の音を聞いた彼女は、すぐに作曲に取り掛かり、曲を作り上げたのでしょう。
彩音√ではグロリアスデイズのメンバー全員が食中毒という嘘のような理由を掲げて彩音たちに代わりにサマフェスで歌わせました。
この√の星奏は「あきらめた」と言っているので、当然星の音を聞けず、新曲を作曲できなかった。
新曲が完成しなかったことで、バンドの面目を保つために急遽体調不良という体をとったのでしょう。
対する星奏√では、星の音をばっちり聞いており、新曲を完成させていたのでグロリアスデイズはサマフェスで彼女の作った新曲を引っさげて歌うことができた。
ただし、メンバーのひとりが食中毒になったことですが、これは多分嘘でしょう。
星奏を確実に連れ戻すために、敢えて全校生の前で歌わせたのではないでしょうか。そんなバカなと思いたいですが、グロリアスデイズは星奏に対して厳しい節があるので可能性は高いです。
最後のメールでの「ごめんなさい」ですが、割と考察案件です。
「星奏の手紙」は本作品において重要な役割を果たしているのは前にも述べましたね。
その枠組みにメールまで当てはめてよいのかという問題です。
この「ごめんなさい」は彼女の人間としての面を介した謝罪なのか。ということですね。
最初の「この町を出ていくんだよな」という洸太郎の問いに対して「ごめん」と返した星奏でしたが、「なんで謝るんだよ」と洸太郎もその後返してます。
口答での「ごめん」とメールでの「ごめんなさい」が同じニュアンスだとすると、2度目の謝罪は洸太郎の神経を逆なでするだけですからね。
私としては、メールと手紙を私自身の心理的に同一視したくはないのですが、本作品において理性的に捉えるとすると、同一視するべきというのも捨てきれないところ。
沼にズブズブと入り込んでいる感が凄いですが、そんなこと気にしてたら文学作品なんて読むことはできないんですよね。
まぁここは人によるところでしょう。
終章で再会したときに洸太郎がブチ切れてるあたり、逆なでしてた感はありますが…
『「思い出」と「想い」』
星奏√最終場面。
文学において「気がした」はほとんどの場合で重要な表現なのは言うまでもありませんが、2度連続で「気がした」を使うのはかなり珍しく、大きく強調されています。
特に2度目の方は、最重要で終章ラストシーンの解釈につながります。
「そうして全力で走っていれば、一瞬でも、彼女に会えるような…そんな気がした。」
この一文があるから、恋×シンアイ彼女の最後はあの解釈しかないと思っているくらいです。
星奏が音楽に全力であったように洸太郎も全力で小説を書く。
星奏は星の音、つまり「思い出」を求め、それを使うことで作曲しているのに対して、洸太郎は星奏への「想い」を糧に小説を書くことを決め、書き続けます。
恋×シンアイ彼女はこの「思い出」と「想い」に気づくか気づかないかで面白さが雲泥のような気がします。
この2つに迫るためには凛香√とゆい√の記述を使う必要があります。
これは凛香√のとある場面です。
「思い出」の無常性や限界が語られると同時に、「想い」の力について語られています。
「想いは何度でもよみがえり、現在、過去、未来に関係なく、人が生きて望む限りその鮮やかさは変わらない」
これが恋カケにおける「想い」の定義です。
※「思い出」についての記述のまえに、「星の光」や「時の流れに、一瞬として同じ時間は存在しない(諸行無常)」と語られているのもかなり意味深。
先ほどの「想い」の定義は、ゆい√で根幹を成していたりします。
亡くなった母との絆である花壇とそこに植えられた花々。
学園の事情により、ゆいが大切に世話していた花壇を破壊されることになった時に出てきた母が埋めたタイムカプセル。
その中に入っていた手紙にはゆいの母が生前描いた絵本と同じ言葉が綴られています。
「大切にお世話して綺麗に咲いた花もいつかは枯れてしまうけど、またあなたの心の中に必ず咲くからね。またいつでも会えるよ。」
大切に育てたこと(全力)は花々への「想い」であり、その記憶と想いはいつでも心の中で咲く。
ゆいの場合は、母との絆や想いの詰まった花壇を破壊されたことを、「想い」という概念を使うことで「母への想い」の現在、過去、未来における不変性、つまり「いつまでも絆は途切れない」ということを語っているわけですね。
※ゆい√では「思い出」と「想い出」という2つの表現が登場している。この使い分け具合からも、本作品における「思い出」と「想い」の関係性が窺える。
さらにゆい√では、星奏√で星奏が何も言わずに転校した後、絶望の中にいた洸太郎が突然また小説を書くことに決めたのかについて述べられています。
ゆいの母が絵本を書けない時は「すごく好きなモノから題材を探す。それはただ好きなんじゃなくて、息を吸うくらいに当たり前すぎるくらい好きだと感じられるモノを題材にする」らしいです。
続いて星奏√に戻ります。
つまり、洸太郎が小学生のころ書いた「さよならアルファコロン」の続編である「それからアルファコロン」は「星奏への想い」を題材、糧にして書き始めるわけです。
ゆい√で述べられた「当たり前すぎるくらい好きなモノ(=想い)」は星奏√では星奏に該当するということです。
このあたりの繋がりを理解できると、恋カケが名作なのかもしくは駄作なのかという枠組みを超えて「面白い」と感じることができるでしょう。
この面白さこそ、文学の面白さです。
それはひとえに、星奏を受け入れられるか、という恋カケへの評価基準を超えた、単純な面白さなわけです。
だから"僕は"この作品が好きなんですよね
※【補足対比】『星奏の「思い出」と洸太郎の「想い」』
スランプになった星奏はまた星の音を聞くため、「思い出」を求めてこの町へ帰ってきます。
ここから、星の音とは消費物であるということがわかります。
星奏は洸太郎と過ごした「思い出」を消費して、「思い出」を曲に昇華させていた。ですが消費物ということは有限ですからいつかは無くなります。正確には「思い出」自体はまだあるのですが、題材にしきってしまったということです。
だからこそ星奏はスランプという形でこの町へ帰ってきたのでしょう。
このあたりから姫野星奏という創作家の「思い出」への固執といいますか妄執具合が窺えますね。
対する洸太郎は、星奏へ送った手紙を書く時点で、星奏への「想い」を使っています。独りよがりだったかどうかは別として、間違いなく星奏への気持ちのはずです。
でも結果的に星奏から返事が返ってこなかったことで、独りよがりで滑稽なモノだったと認識してしまい、「想い」に対する恐怖心が生まれ、アレルギー反応のようなトラウマになってしまいます。
そんな彼は星奏や、時には別のヒロイン達と恋仲として過ごして育んできた「愛情」という形を知ることで「想い」を取り戻していきます。
そしてその「想い」はこれからもずっと変わらず、ずっと続いていきます。
そんな洸太郎の「想い」は、一瞬でも、彼女に会わせてくれるのでしょうか。
【終章 -Last Episode₋】
長くなりましたが、ようやく終章です。
終章は星奏√の後の話ですが、洸太郎の√なんだと思います。
テーマは「職業召命観」、「想い」
『森野精華』
(星奏と別れて数年後、洸太郎は母校で教師となってしました。そんな洸太郎の最近の悩みは唯一の文芸部員である森野精華でした。彼女は事あるごとに顧問の洸太郎にアプローチを仕掛け、洸太郎はそんな精華に呆れながらも関わる日々。
精華は過去に子役として活躍していた時期がありました。ですがわけあって今は休業しているようです。)
終章にて突然の新キャラ。実は星奏√での映画撮影の場面で子役として登場していましたが。
正直かなりグッとくる可愛さを持つ精華ですが、もちろん彼女には終章において、ある大きな役割を担っています。
子役として昔は活躍していて、今はわけあって休業中…
どこかで同じようなことしてた人がいましたね。
精華を通して洸太郎は彼女を知ることになります。
『二回目の再会』
(星奏は突然またこの町へ帰ってきた。
呆気にとられる洸太郎でしたが、星奏に誘われるまま飲みに行くことに。そこでお互いの職業や近況をどこかよそよそしく報告し合います。どうやら星奏は今はなにもしておらず、作曲は休業中とのこと。
「今晩泊まる宿がない」と洸太郎の前でわざとらしく言う彼女に、洸太郎は「からかっているのか」と静かに怒りながらも、結局星奏を家に泊めることに。
家に着いた洸太郎は「この町へ何をしにきたのか」と問います。
「思い出に浸りに、戻ってきたんだよ」と星奏は答える。
高校生の時とは違い、あっさりと彼女は帰ってきた理由を告げるのでした)
星奏は、洸太郎のいるこの町へまたやってきます。
しかし、洸太郎には「自分が利用されていた」という自覚があり、星奏に対して鼻持ちならない感情を抱いています。それでも星奏のお願いを聞いてしまうあたり、理性と恋という感情(想い)は混合しないものであり、恋心とは理性的な判断を狂わす一種の病気のようなものであるということが感じられました。
洸太郎が、昔から星奏へ全力であったという「想い」は過去、未来、現在で彼の中で有り続けるため、どうしようもないほどにその「想い」はどこでも喚起して、時に冷静さを失ってしまう。
だから洸太郎は「姫野星奏にはかなわない」と述べるわけです。
「思い出に浸りにきた」と述べる星奏。
先の話になりますが、同棲中に星の音を聴いてまたこの町から出ていくあたり、高校時代と同じ理由で帰ってきていると考えられますね。
彼女にとって「星の音を聴くこと」と「思い出に浸ること」はほとんど同義であると言えます。
これまた先の話になりますが、一応星奏は「やりきったのか」という洸太郎の問いに「うん」と頷いているので、星の音を聴いてしまえば作曲をしなければならない 、という見方ができるとも言えるのでしょう。さらに星奏√終盤で、星奏はグロデイメンバーのよっこに「もう夏だよ。そういう約束だったよね」と念押された後にかなりうろたえているので、逆説的に考えれば、念押しする必要がある=星の音は聴けたが、まだこの町に残れるなら残りたい、と星奏が思っているように見えたと考えられる。それでもよっことのグロデイ内での関係もあって音楽一本の道を選ぶわけですが…
『変わらない場所』
(精華の無理矢理な理屈で1時間だけ遊びにいくことになった洸太郎。精華に連れられ向かった先はあの桜の丘でした。
あの時と変わらず、季節外れに桜は咲いています。)
終章において精華には2つ大きな役割があります。そのひとつがこの場面。
桜の丘についての解釈、答え合わせが精華によって述べられます。
精華の状況は、星奏と非常に酷似しています。今は休業中な精華ですが、役者としてスランプ的なものに陥っていたのでしょう。なんにせよ本質的なところはともかく、事実上星奏と精華の状況は似ています。
つまり、精華=星奏の図式が成り立つので、まず間違いなく精華の桜の丘の解釈やこの場面で述べられる彼女の心境は、星奏を理解するうえで重要なものです。
精華を通して当時の星奏を知っていくわけです。
実際に精華を通して洸太郎が星奏を理解できたのかの描写はありませんが、少なくともプレイヤー側の私たちには、星奏を理解するうえで精華という人物はかなり重要になってきます。
そんな精華の桜の丘に対する解釈がこちらになります。
※以下終章より引用。
精華 「多分、ここはあらゆる時間から切り離されているんですよ。ここではずっと時間が止まってるんです。何も変わらない場所なんです。」
洸太郎「森野は、そういう場所が欲しいのか?」
精華 「…、私…転校するんです。」
洸太郎「…え?」
精華 「…」
洸太郎「ほんとか?」
精華 「はい。東京へ。お芝居の方で、本格的に、お仕事がいただけそうで。テレビのお仕事ですよ。ドラマですよ。」
洸太郎「…それは…凄いな」
精華 「なんだか私中心に家族が動いていて、けっこうなプレッシャーですよ」
洸太郎「森野は、やりたいんだよな」
精華 「さぁ。物心つくころから、やらされてましたから。やりたいのかどうかも、よく分かりません。実際どうなんでしょうね。最初に先生に会った時、別に、暇をもてあましてぶらぶらしてたわけじゃないんですよ。」
※中略
精華 「ただ、一人になりたかったんです。くさい言い方ですけど、自分と向き合う時間みたいなのが欲しくて。だけど、よくわからなかった。でも、先生に文芸部に誘われて、あそこでいろんな本を読んだり、先生と話してるうちに…なんだか自分を取り戻せたような気がしました。取り戻す自分が、なんだったかのかすら、わかっていない私ですが…」
精華の言う桜の丘の解釈は、星奏が望み求める「思い出」を想起させます。
星奏は何も変わらない場所を求めている。それらを言語化すると「思い出」となり、彼女独自の表現にすると「星の音」になります。
精華のように、星奏が親からやらされていたのかはわかりませんが、彼女中心に家族が動いていたこと等は一致するようにも見えます。
親が転勤するから転校するのは、驚きはするもののさして珍しい事例というわけではありません。ですが子供の仕事の事情で転校するのはあまり見ないですし、精華や星奏からすれば違和感を通り越して重圧を感じるものかもしれません。
どちらも共通することは、人の生活環境とは職業によって変化するものであるということです。これは「職業とは神が人間に与えた現世での使命である」という職業召命観の考え方を無理矢理用いると、ある程度納得がいくところがあります。
要するに「職業が先か、生活という営みが先か」という話です。
職業とは往々にして成人や義務教育後の人間が就くものではありますし、社会はそれに合わせて動いていきます。
時にはその常識に適用されない子役などの仕事に就くものも少なからずいるものではあります。しかし社会は彼女らのような人種にも、職業という枠組みをあて、ましてや大人と同じ環境で仕事に取り組ませるわけです。
物心つくころの前後に限らず、思春期のような物事に対して多感な時期に、自分達よりも何歩も先を行く大人の世界を体感するというのは、幼少期に培うべき「人間性」の構築に支障をきたすものなのでしょう。
私たちは、どこか仕事と私生活をわけて考える節があります。「家族サービス」なんて言葉が皮肉にもあるくらいですから、大人でも仕事に対してある種の使命感にも満ちたものが湧き上がることもあるのでしょう。それでも大人は幼少期に培うべくして培った感情やら倫理やらの人間性が備わっている。
そんなドロドロの世界に、人格を形成する前の多感な子供が飛び込むわけですから、それは人間性の欠如と、職業人としての価値観の形成が行われるのは容易に想像できます。
続きは『グロリアスデイズ』で
『届くもの』
(星奏に振られたから、夢を諦めたわけではなく、ただ才能がなかった。
そんな風に卑下する洸太郎。
ですが、そんな彼に星奏は私は好きだったと言う。)
小説家とは、洸太郎のように自己顕示欲ともいえる一方的で利己的なものを使って書くのではないと言う。
でも正直私はこの場面で終章が終わるのかなと思っていました。
間違いなく洸太郎は、高校時代に夜の海で宣言した「君に届くものを書く」ことができたのですから。
そんな彼にとって星奏の言葉は救いのはずなのだから。
しかしそのことにも気づかないほど洸太郎は憔悴しきっていたのでしょう。
それだけ洸太郎にとって、星奏が何も言わず、この町から出ていったことは大きなことだった。
人間の心理はプラスをマイナスで消すことはできても 、マイナスをプラスで打ち消すことは難しい。
この後に続く、「俺は君のことが大嫌いだ」は印象的。
最初にこの町へ帰ってきた星奏を「作曲家としての君」と言うあたり、やはり星奏は人間として帰ってきていなかったのでしょう。
『教師として』
(精華は告白のような「想い」を洸太郎にぶつけます。
自分は洸太郎の前だけ、自然でいられる。東京に行けばずっと別の誰かを演じ続けなければならない。
それが怖い。
そんな彼女に、洸太郎はある小説を書きます。大勢を感動させる小説は書けないけれど、だれか個人を対象にした小説なら書けるから。
翌日、精華に小説を渡す洸太郎。
自分のことはわからないけど、その分他人のことは見ていたつもりだから、自分の正体がわからなくなったらこの小説を読んで欲しい。ちゃんと俺は見ていたから。
教師として。)
精華に与えられたもうひとつの役割がこの場面です。
桜の丘で星奏のように語った彼女ですが、ここでは精華の「想い」を洸太郎はぶつけられます。それに対して洸太郎が「教師として」精華を見ていた。
分かる方はわかると思いますが、つまり洸太郎が自分の「想い」を星奏にぶつけて、星奏が作曲家として最後に決断したように、今度は自分が職業人としてその「想い」を断ることになるわけです。
精華は「過去の洸太郎」、洸太郎は「星奏」の役割を演じ、体感する構図は本当に面白い。
そこから、もう少しプレイヤー側に解釈させる糸口のような文を綴ればよかったものを、恋カケ特有の場面のブツ切りで、一気に場面が終わってしまうのがもったいない。
その辺の説明不足をなんとかすれば、恋カケはもう少し肯定的に評価されると思いました。
プレイヤーに「察しろ」と解釈を投げっぱなしにするのは凄く危険で、ここまで行くと流石に文学に対するセンスを必要とする域な気がします。
『やっぱり好きだから』
(旧友である涼介にグロリアスデイズが多額の負債を抱えたあげく蒸発したことを電話で伝えられた洸太郎。洸太郎はまだこの町にいるはずの星奏を探しに走り回ります。
あの時と同じように、バスに乗り込もうとしている星奏を発見した洸太郎は、偶然だねと言う星奏に対して「偶然じゃねえよ!」と大声で叫ぶ。
何故また何も言ってくれないんだと問い詰める洸太郎
洸太郎達を利用し裏切って音楽を選んだから。でも1人になると洸太郎を思い出してまいこの町に来たくなってしまう。一人は辛いから。一人は嫌だから。卑怯でもなんでも…やっぱり、好きだから。
そんな星奏に「もうやりきったのか」と問うと「もう思い残すことはない」と星奏は答え、また2人は結ばれる)
理性によって恋心は制することはできない。
それは星奏にも当てはまることでした。
彼女の洸太郎に対する好意は間違いなく本心です。
でもやっぱり彼女は人間である前に創作家でした。
私情は職業には勝てません
「職業とは神が人間に与えた使命」なのだから。
『誓い』
(同棲中のある日、2人は高校時代の面子やグロリアスデイズのメンバーの近況を語りあっていました。しかし、時計の針が0時を過ぎたころ、星奏は夜の海を見に行かないかと洸太郎を誘います。
海へ向かう中、どうして夜の海を見たいんだと聞くと、星奏は「星の音が聞こえたから」と返すのでした。
数日後の朝、星奏はそこにはいませんでした。たった一通の手紙を残して。)
彼女の手紙の内容がこちらです。
※以下終章より引用
洸太郎君
こうしてお手紙を差し上げるのは二度目ですね。下手だった手紙も少しは上手くなってるかな。なってたらうれしいです。
まずはごめんなさい
また、私は繰り返してしまいました。あなたの前から、去ります。
どうして言ってくれなかったんだって言葉、覚えてます。でもどうしても言葉にできないことって、あるみたいです。洸太郎君なら、できるのかな。
私に言えることはやっぱり、これだけです。
さようなら
誓って、もうあなたの前に現れることはありません。
これは私にとっての、絶対の約束です。
もう、あなたを利用したりしません。
指輪、受け取れなかったけど、ありがとう。
こんなこと手紙に残すのは、やっぱり卑怯だけど…
ずっと昔、あなたが勇気を出して、手紙をくれたこと。
そして指輪の箱をさしだしてくれたこと。
あの瞬間を、ずっと大事にしながら私は生きていくと思います。
『姫野星奏は國見洸太郎を愛している』で述べたように、彼女の手紙は紛れもなく本心であり、人間としての星奏のコミュニケーション方法です。
洸太郎が昔、星奏に手紙を渡したあの時に、彼女の中で恋愛感情というものが芽生え、創作家ではない人間としての星奏が生まれます。
洸太郎にとって欲しかった星奏の本音、洸太郎の「想い」という人間として答えなければならない事柄が彼女の手紙には詰まっています。
『天命』
(星奏と別れて、しばらくは何も考えずがむしゃらに仕事に打ち込んでいたが、やがて自身の精神状態が生徒に迷惑をかけることになるのではないかと考えた洸太郎は辞職する。
彼の行きつくべき場所は一体どこにあるのだろうか)
職業に対して「天命」と例える彼からは、星奏あるいは精華のような生まれながらに職業人だった人間との関わりの末に辿りついた言葉だと感じます。
洸太郎も小説家を夢見て、周りからも神童などと囃し立てられてもいたにもかかわらず、結局は「才能がない」と決めつけ、小説家に落ち着けなかった絶望、虚無感から「天命」などと自身の意思では決定しえない眉唾な概念として職業を捉える彼は、やはり形のないものを追い求め続ける小説家という職業人なんだなぁと思いました。
『あなたに会いたい』
(教師を辞めて、自暴自棄のような状態に陥った洸太郎。なにもかもに絶望し、恋に全力だった過去の自分を嘲笑いながら酒におぼれる日々。
ですがそんな彼に残ったのは「あなたに会いたい」という「想い」だった。
洸太郎は高校時代のツテを辿って、ルポライターとして働き始める。
書きたい記事があった。それを書いたところで何になるのかもわからない洸太郎だったが、その記事を書くことを目標に全力で仕事に打ち込む。
グロリアスデイズを追い、彼女の歩いてきた道を追うために。)
教師という職業を失い、とうとう自分自身にすら絶望する洸太郎でしたが、最終的に行きつく先は、過去に作り上げてきた星奏への「想い」だったというのは、本当に面白い展開です。
その「想い」の勢いに任せてまた小説を書くのではなく、星奏が歩み、住んできた世界に到ることで、自分から会いに行こうとするのですね。(もちろん本当に会いに行くわけではありません)
今も昔も、洸太郎は星奏のために、モノを生み出し続ける創作家でした。
『グロリアスデイズ』
(ルポライターとして3年間下積みの末、ついに洸太郎は念願の「グロリアスデイズ」についての記事を書くことを許されます。
リーダーであった"よっこ"こと吉村とのアポをとることに成功した洸太郎は、グロリアスデイズの始まりと終わり、そして姫野星奏を知る。)
説明が難しいのですが、つまるところ
小学生時代、生粋の創作家であり音楽に没頭していた星奏は、洸太郎からラブレターという人間性の塊(?)、人間としての価値観や営みに基づいたものを受け取ったことで、彼女の中で生まれながら欠如していた「人間性」が芽生えはじめます。しかし、突如自分の中に現れた人間としての姫野星奏は洸太郎のラブレターの返事の書き方がわからない。
さらに時期も悪かった。小学生ながらにしてコンペに応募し、才を認められた星奏はすぐに転校。人気バンド「グロリアスデイズ」の作曲担当として従事することに。
そのなかで、「グロリアスデイズ」の人気を使って利益を得ようとする大人に翻弄されるまだ子供の彼女たち。
決定的なのは手紙のことを嬉しそうに語る星奏に対して、よっこは「そんなもの捨てなさい」と一蹴し、挙句には「音楽のことだけ考えなさい」と恫喝。
これを機に、星奏の中で僅かに芽生え始めていた洸太郎からもらった人間性を捨てることに。好きという感情を置き去りにします。
それにかわって作曲家としての仕事を最優先にするという強迫観念が形成される。
洸太郎の「何故手紙の返事をくれなかったのか」という問いに対して「それを言ったら、私は、きっとここにはいられないから」と返したのは、先ほどの強迫観念が理由です。
彼女にとっての最優先事項は作曲で、それを超えて洸太郎の想いに答えることはできないのです。(それでも洸太郎の「想い」に応えたのは、洸太郎の告白の中の「好きです。今も昔も」という言葉に星の音を辿る可能性を感じたから。)
『置き去りにしたもの』で彼女が述べた「好きという気持ちを凄く遠いところに置き去りにした」という表現からもある程度察することができますね。
要するに、よっこのあの発言が諸悪のうんたらかんたらで、そのせいで洸太郎が傷つくことになったとも言えます。責任の所在を求めるのはまた別問題でしょうし、あまり言及はしませんが。
(多額の負債を抱えた「グロリアスデイズ」に変わって負債を受け持った星奏は、洸太郎との同棲後、また曲を作り始めます。
しかし過去に星奏が放っていた輝きは、大人たちによって翻弄され搾取しつくされており、彼女が洸太郎と別れてから作った曲は、洸太郎にも空虚でウソ寒いもののように見えた。
その後もいくつかの曲を作り、星奏は音楽業界から姿を消す。
彼女が全力であり続けたイメージだけがそこに残っていた。)
正直なところこの展開はあまり好まないです。
終章では、大人に搾取された子供たちの顛末が語られますが、終章自体がシナリオライターの新島夕によって急遽作られた物語なので、星奏√とのつながりが甘く、論点のズレを感じずにはいられません。
好きかどうかはともかく、面白いんですけどね。
『想い』
(洸太郎が手掛けた「グロリアスデイズ」について書かれた記事は反響が予想よりも大きく、上層部にクレームが入ったことで、洸太郎はルポライターをクビになる。
また職を失った洸太郎ですが、3年間全力で彼女を追い続けた洸太郎は迷いはしませんでした。
小説を書こう。
どうか俺の言葉を聴いてください。
ささやかな恋を語らせてください。
ーーーーーーーーーー
夏が過ぎ、冬が過ぎた。
1年ぶりに星奏とよく行った高台の公園のベンチに座り、彼女を想う。
洸太郎の手掛けた「お前はアルファコロン」は年始には刊行された。
その小説は、洸太郎の言葉は彼女に届いたのだろうか。
1人は辛い、1人は嫌だと言った彼女に自分の言葉が届いたのなら、彼女は1人じゃなくなるのかもしれない。
…
そんなことを想った洸太郎は、ふと彼女に「手紙」を書きたくなります。
彼女が1人だと感じなくなるように。)
最後に星奏からもらった別れの手紙の、返事の手紙を告げる洸太郎。
星奏はよっこに「手紙を捨てろ」と言われて、毎晩泣きながら洸太郎の名前を呼んでいました。
それくらい彼女にとってみれば苦しいことだったのでしょう。「好き」という気持ちを置き去りにしなければならなかった。多感な時期もあいまってのことかもしれない
昔、洸太郎から受け取った「好き」という気持ち。それはまぎれもなく彼女が初めて感じた「人間としての触れ合い」です。
それを置き去りにして、音楽に全力であった星奏。
彼女が最後に洸太郎に渡した手紙は、「決別」という誓い。
作曲家として音楽に向き合うために。人間として洸太郎の想いに真摯になるために。
決別とは、「人間」と「人間」、同じ立場にいた存在が別々の道を歩むことです。
星奏は洸太郎への「想い」に「想い」で返してくれました。
だからこそ、彼女の書く手紙は紛れもなく彼女の本心なのだと私は思います。
星奏は洸太郎を愛していていました。
洸太郎も星奏に全力でした。
彼女を追いかけたその先には何も待ってはいなかった。
しかし、彼女へ全力であったこの「想い」は今もこうして、様々な記憶や思い出を鮮やかに喚起させます。
そしてこの「想い」が少しでも彼女を孤独にさせなかったのであれば、全ては無駄ではなかった。
そうして、彼は彼女が一番輝いていたころに作られた曲を再生する。
彼女の全力だった「想い」が詰まった曲は、今なお鮮やかに彼女を映し出しているのでしょう。
全力で駆け抜けたこの「想い」はどこかにいる彼女に届き、また彼女の「想い」も感じながら、今こうして彼女の全力が詰まった音楽を聴いている。
そんな彼の横では、空想の星奏が洸太郎を見上げています。
洸太郎の「想い」が美しい思い出を呼び起こすように。
星奏の「想い」が込められた曲が洸太郎を孤独にさせないかのように。
2人の「想い」がようやく重なり合い、彼女を一瞬近くに感じた 。
そんな風に私は思いました。
ーーー想いは何度でもよみがえり、現在、過去、未来に関係なく、人が生きて望む限りその鮮やかさは変わらないーーー
【補足:2人の「想い」の伝え方】
※追記文章として残しておきます。
恋カケを読むうちに、誰しも行き当たる疑問。
「なぜ言葉にして伝えないのか」
結局最後まで彼らは自分の口で相手への「想い」を述べることはありませんでした。
なぜそんなことになったのでしょう。
その疑問を解消するために、本作品冒頭での洸太郎の回想を振り返ります。
彼にとって、この胸の中にあるどうしても譲れない「想い」は、言葉にすることができないのですね。
「言葉にした瞬間、何か別の物になりそう」という小説家ならではと言うか、すさまじく個人の主観的な感覚に基づいて、彼は言葉にするのではなく小説を書きます。
だからこそ洸太郎は最後の最後で星奏からもらった決別の手紙に対して、手紙で返す必要があった。
さらに言えば、昔、星奏へ自分の「想い」を込めたラブレターを送ったことに対して「自意識を超えて伝えるものがなかった」 と自虐していましたね。
だからこそ、ラストシーンで空に向かって、どこかにいる星奏に届くように、手紙の返事を告げるわけです
『想い』でほのめかしましたが、返事の手紙を告げるとはそういうことです。
手紙である必要があり、でも言葉にしなければいけなかったんですね。
うーん…文学ですねw
面白いです。
洸太郎については上記で述べた通りです。
では星奏はどうか?
星奏も終始洸太郎への「想い」は手紙を使ったり、音楽を使ったりでした。
星奏√で彼女はこんな発言をしています。
冒頭での洸太郎の語りと同様、彼女も「言葉にした瞬間、何か別の物になりそう」と考えていることがなんとなくわかります
手紙の書き方を学ぶために文芸部に入った星奏。
うまくいえなくて伝えられないことがある。
言いたいことを文章にできれば、もっとちゃんと繋がれる。
言葉にするのはできない。だから洸太郎と同じように手紙を使うわけです。
手紙を使った彼に、できるだけ伝わりやすいように。
だからこそ、告白の返事の手紙と決別の手紙は彼女の伝えたいこと、すなわち「想い」に他なりません。
最後に洸太郎が星奏の作った曲から、思い出を喚起したのは、星奏の得意分野である音楽によって、今度は自分が彼女の残した「想い」を感じようとするわけですね。
「想い」に「想い」で返す。
そして手紙や小説、音楽という生きている時間を超えて、次世代まで続く「創作物」を使うことで、「想い」の不変性を語る。
言葉によって紡いだ(頭の中の)思い出は、どれだけ美しくてもフィルターのようなものを通してしまい、現実味を帯びなくなってしまう。
ならば、その「想い」をモノに込められれば…
込められた「想い」を通して過去、未来、現在いつでも、彼らの中で美しい思い出を鮮やかに喚起させることができるだろう。
恋カケは難しいですね。
私は、新島さんをはじめとしたシナリオライターの方々の考え作り上げたテーマをきちんと受け取れたのでしょうか。
「曲解」という、ある種制作側への冒涜のようなことになっていなければ幸いです。
【あとがき】
※今回はあまりにも考察ばかりで、感想が足りなかったので「あとがき」という形で記事制作中の想いも込めて綴らせていただきます。要するに以下は自分語りになります。
前語りでもほのめかしたように、今回は賛否両論な作品ということで、1から10まで順を追って感想を述べてきました。
その末に、何か皆様に伝えられたものがあったかどうかはわかりません。
それでも自分としては、たった一人のヒロインと一人の主人公のためだけに、10ほどの夜を超えて感想を書くことになったわけでして、その湧き上がる熱量に驚きました。
「それだけこの作品が好きだったんだなぁ」と感じずにはいられません。
駄作とか名作という単位で恋カケを評価するのなら、まず間違いなく名作ではない。
名作の詳しい定義はわかりませんが、私としては「素晴らしい物語として讃える方が多く、否定派の方が少ないのが名作の基準であり、その逆が駄作だ」と思っています。
恋カケにそれを当てはめれば、賛否両論という形であり、讃える方もいれば唾を吐く方もいる。
要するに名作でも駄作でもなく、ましてや傑作でもありません。
肯定的な意見の数だけ、否定的な意見があるように思えますからね。正確な比率はわかりませんが。
名作なのか駄作なのか、は個人で決められるものではないのでしょう。
中立な私にはそれを決めるための票すら持っていませんけどね。
最後に。
SNS等で恋カケの感想を簡易的に呟いた際に、「中立ぶってる」なんて揶揄された私ですが、自分としても本当に自分が肯定派なのか否定派なのかという二極化された枠組みにおいてどちらに属するのだろうかはわかりません。
私は姫野星奏が嫌いです。
人道や倫理、正義論といった人間全体としての基準付け、あるいは否定派の方に倣って、生理的に受け入れられないという価値観レベルでの評価、を用いれば間違いなく私は彼女を好ましい人物とは思いません。
しかし、事実として私はこの作品の物語が好きみたいなのです。
それは私が、理想のヒロイン像、「こうあるべきものだ」というものを持っておらず、エロゲに対して物語としての文学性を求めていることの証左になりうるのでしょう。
そういった事情を踏まえても、恋カケにおいて私は中途半端な人間なのでしょうね。
一つ確信して言えることは、姫野星奏という「創作家」とそれを追いかける國見洸太郎という「人間」が織りなす、すれ違いや喪失、想いを描いたこの作品が"私は"好きです。
星奏というキャラクターを受け入れられるか、という恋カケへの通説的価値判断ではなく、私にとって星奏はヒロインではなく物語を楽しくさせるためのほろ苦いエッセンスのようなものだったということでしょうか。
どちらかに染まる両極端な人間になり、うがった見方しかできないのであれば、そんな枠組みなんて私はいりませんし、当てはめられたくはありません。
例え「中立な人」と揶揄されようとも、文学の見せる世界を狭めたくありません。
多種多様な解釈、意見があってそこから世界が広がっていければ、一番幸せなことだと私は思います。
文章に真摯に向き合うことの大切さを再認識させてもらった作品でした。
その結果私は明確な立ち位置を見出せず、例えるなら「沼」のように、のめりこんで這い出せなくなったのかもしれません。
そんな「沼」へののめり込み具合を文章に起こし書き殴ったこの考察と感想群は、「記事」というものにあってはならない私個人の感傷が混入しすぎています。
それでも全力で書ききった後には清々しさが湧き上がっているものなんですね。
主人公に感情移入しない俯瞰的なプレイスタイルを心がけている私ですが、今ちょっとだけ洸太郎の気持ちがわかったような気がします。
...ポエミーですねw小っ恥ずかしいw
【おわりに】
お疲れ様でした。
気づけば26000と少しの字数を書き連ねており、本記事は私が執筆した感想記事の中ではダントツの字数になってしまいました。そんな記事をここまで読んでいただいた方は聖人のような方々だと思います(媚び売り)
本記事を見て、何言ってんだこいつって思った方も少なくないと予想している私ですが、こういう恥ずかしい人間もいるんだよってことで見逃してくださいw
長くなりましたので、もう一度。
本当にお疲れ様でした。
今回の記事は以上になります。
次回の記事はまだ未定ですが、案としては
「アマツツミとアオイトリ」 「サクラノ詩」を考えております。
次回の記事でもまた皆様に会えたら幸いです。
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